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![]() 来馬城に直接関係する史料はない。 天正8年(1580)4月20日、倉科七郎左衛門尉宛て武田家朱印状(安曇野市・倉科家文書〈『戦武』3329〉)において、倉科氏は今後、御家人として奉公を勤めることにより、知行を宛行われている。その知行地の中に「小谷之内来馬寺分 壱貫五百文」とある。 この「来馬寺」とは来馬にある鬼来山常法寺を指していると考えられている。 また、倉科氏は江戸時代、松本において問屋・大名主を務め、松本藩の商業の中心的な立場に立つこととなる(『大町市史』第二巻)。 地誌関係の諸本では、明治初期の官撰地誌編纂事業による調査記録『長野縣町村誌』北小谷村に「砦跡」として立項されている。 要約すると「横沢佐渡という者がいた。永禄3年(1560)、武田信玄に召し出され、来馬郷を知行地として下され、越後口の守備を命じられた。その後、天正10年(1582)に松本城主小笠原氏から苗字・帯刀・灯燈合印・合力米を下された。また、越後口の守備を命じられ、代々継いできたが、明治3年11月、御一新につき廃止された。もっとも小谷七騎と称され、横沢氏以外の6名は、中小谷村、中土村に居る」と書かれている。 『北安曇郡志』(大正12年〈1923〉刊行)では「来馬砦」の項で、弘治2年(1556)、武田氏が上杉氏に備えるために築城したとものと伝わる、としている。 同書では武田氏による平倉城の陥落を弘治2年としていることから(実際は弘治3年)、その際に築城されたことになる。 『大系』では「来馬集落の西にあったというが、現在では地字に残るのみ。弘治2年、武田氏の築城。別名城ヶ峰」と書かれている。 『小谷村誌』は城地名の中で、来馬の「城山」を取り上げており、「浦川の河口の小山」で「姫川に面した方には平坦地がある」とする。 『戦武』(文書番号)…『戦国遺文』武田氏編 【上】来馬城 北西側からの眺め 写真右側から中央部にかけて、姫川に突き出た尾根上にある。姫川対岸には平倉城と立山が見える。 『来馬城縄張図』―立地― 姫川左岸に突き出た舌状台地上にある。南麓には浦川が流れており、その先の城域東側で姫川に合流している。 そのため、城域北・東・南側は河川によって削られ、断崖を形成している。 城域西側、舌状台地のつけ根部分には千国道(塩の道)が通っており、来馬と石坂との中間に位置する。 南東側には姫川を挟んで平倉城が指呼の間にある。 ―アクセスルート―
国道148号、道の駅小谷の北側から旧道へ入り、来馬温泉方面へ。そのまま常法寺・松ヶ峯方面へ姫川沿いの道(塩の道)を南下。 来馬城のある舌状台地のつけ根部分がちょうどヘアピンカーブとなっており、カーブを抜けたところに塩の道の案内板が立つ広場がある。そこに駐車できる。 この道は約300m先、電波塔が見える松ヶ峯無線中継所で行き止まりとなっているが、そこに展望台が併設されており、平倉城・立山が一望できる。 【右上】登城口 ヘアピンカーブを抜けたところから尾根上に登ることができる。ここから城域先端まで約10分。 ―現況―
塩の道から約70mの間、尾根上としてはやや広い郭が続く。宮坂武男氏はこの部分を城域とみなしていない。三島正之氏は「削平を施した形跡のみられる個所もあるが、城の遺構かどうか判断できない」とする。橋の手前に堀切の痕跡があるため、三島氏はそれより東側が城域と判断している。 判断が難しい部分であるが、街道の通る位置が現在と同じならば、やはり城域としてよいのではないか。 【右上】北側の眺め A 姫川の左岸(写真左側)の平地は来馬川原といわれ、明治44年の稗田山の大崩落によって様相が一変した部分。現在みえる広大な川原の部分に街道が通り、田畑が広がり、来馬の集落が形成されていたという。
南北両サイドの断崖の崩落が激しく、危険なことから立派な橋が架けられた模様。三島氏の縄張図によると橋の西側のところに堀切が描かれているが、私は橋に気をとられてまったく気付かず…。 【右上】岩石が積み重なった急坂 C 橋を渡り終えると、笹薮の洗礼を受け、50mほど進むとここに出る。巨大な岩の間をすり抜けながら急な上り坂を進むことになる。宮坂氏はここから先を城域と判断しているようで、縄張図はこれより東側から始まる。
岩場を登りきると虎口状の道を通り、南側に土塁をともなった尾根が続く。 【右上】ピーク部分の郭 E 約20m×8mの大きさで、郭といえるほどの整地はされていない。案内板には宮坂氏の「来馬城」の記事・鳥瞰図が載っている。氏によれば、北東斜面下部に広大な平地部分があるとのことだが未確認。
堀切の痕跡が残る。 【右上】城域先端部 G 再び笹薮の洗礼を受ける。小さな腰郭が数段続いている。 ![]() ―感想― 城の選地としては、下里瀬の城峯と同様、姫川に突き出た舌状台地上にあり、そのつけ根部分に千国道が通っている。したがって、街道の通行を監視することが主目的だった可能性が高い。 城の縄張は、やせ尾根に郭を配置し、要所に堀切を配置したものであり、築城主体を特定できそうな特徴はない。 『長野県町村誌』の記事内容については、その根拠となるような史料がないため、なぜ横沢氏が永禄3年に来馬郷の知行を宛行われたのかなど不明な点が多い。 「小谷七騎」については、稲葉城の感想を参照。 また、城域には立派な橋・案内板が設置されており、一時はだいぶ整備されていたようだが、現在は橋の手前にも笹薮に覆われた部分がある。おそらく春から秋にかけてはかなりの薮になってしまうだろう。 以前には登城口にも案内板があったようだが、それもなくなっていたため、知る人ぞ知るといった状態になっている。 整備された状態を維持していくことの難しさを感じる城であった。
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