春日城

かすがじょう




鎌倉時代から室町時代にかけて、春日氏の居城であった。春日氏は望月氏の同族である小県の 祢津氏から出ている。
永正13年(1515)には望月城主の望月氏により滅ぼされ、その後は望月氏系春日氏の居城となった。
そして戦国時代になり武田氏に従った芦田(依田)氏の居城となる。
天正10年(1582)武田氏が滅亡すると、 駿河の田中城主であった依田信蕃(よだのぶしげ)は、 徳川家康の説得により開城し、春日城へ戻ってくる。織田信長の死後、佐久地方へ北条氏が 侵攻し、甲斐にて徳川氏と対立する。信蕃は北条軍の糧道を遮断して徳川氏と和睦、撤退させることに成功。
その後、信蕃は春日城を本拠に真田昌幸の協力を得て、岩村田の大井城を はじめ佐久の諸城を攻略したが、天正11年(1583)大井行吉が守る岩尾城を 攻撃中に弟と共に戦死した。
<場所>佐久市春日
<行き方>国道142号から県道151号に入り南進。 春日小学校前信号右折してすぐ左折。康国寺裏手の山
<駐車場>康国寺駐車場 10台
<撮影日>2004年4月
<参考文献>『日本城郭大系』8


【左上・右上】康国寺 総門と本堂  春日城の北東麓にある康国寺は依田信蕃の長子である 松平康国の菩提の為に弟の康真が慶長6年(1601)に建立した。
この地は古くは春日氏の居館、そして康国の祖父依田信守、父信蕃の居館跡である。
徳川家康は信蕃の死を惜しみ、長子の竹福丸に「康」の字を、さらに「松平」姓を与え 松平康国と名乗らせ、小諸城主にした。
天正18年(1590)秀吉の小田原征伐の際、上野国石倉城にて戦死した。
その後、弟の康真は上野藤岡三万石を得ることになる。
康国寺の背後の山が春日城。

【左上】最初の大きい郭  尾根道を上りはじめると道の両脇に狭いながらも 段郭が多数見られ、しばらく行くと神社の舞台が建っている平場に出る。ここは城内で一番大きい 郭で、前後には堀切がある。
【中上・右上】秋葉社のある郭  さらに急な斜面を登って行くと、道が九十九折りになり、この郭の北下 から東側に回って入る。右上の写真は北側端で、ここから真下10mに道が見え、虎口部分まで 横矢がかけられる。左上の郭が攻撃の為の郭なら、ここは防御の郭といえる。

【左上】秋葉社背後の堀切  ここの堀切はだいぶ埋まってしまっているが、上幅はかなり大きい。
【中上】主郭  南側背後には2m高の土塁があり、その後ろは15m高の切岸でかなりの迫力。 康国寺から主郭まで約20分。
【右上】主郭背後の堀切  主郭背後には3条の堀切が続き、その後ろ80m程平坦地が 続き、最後の堀切がある。どれも保存状態は良く、見ごたえのあるものだ。


【左】登城口  康国寺の北隣に農協があり、その道を入って行き、約80m左側に写真の秋葉社 鳥居が見える。民家の間の奥まった所にある。
他に尾根の西側、春日小信号右折して200m先左側に春日城の案内板が立っており、 そこからも登城できる。(駐車場無し)


〜依田信蕃〜

佐久地方の城をめぐっていると、城の歴史に必ずと言っていいほど武田信玄と依田(芦田)信蕃が 出てくる。依田信蕃は信玄の配下になってから活躍めざましく、駿河、遠江地方でも 名前がでてくる。
信玄上洛の際、 遠江二俣城を 落とし依田信守、信蕃父子を主将として守備させた。
長篠・設楽原の戦いの後、 徳川家康は諏訪原城を攻略し、二俣城は孤立する。 信守病死後も信蕃の指揮により激しい抵抗を続けていたが、天正3年(1575)12月 ついに勝頼の再三の勧告によって 信蕃は降伏開城した。信蕃は城を家康に渡し、堂々と 高天神城へと退去していったという。
その後天正10年2月、田中城主将であった 依田信蕃は徳川軍に包囲され激戦を繰り返したが、 江尻城主の穴山梅雪(信君)が徳川方に寝返り完全孤立。家康の勧めで同年3月に開城、信濃春日へと 戻っていった。
このような信蕃の主君に対しての忠節、勇敢さに家康は惚れ込んだのではないだろうか。 開城後もそのまま信濃へ帰し、自分の家臣になるよう誘ったようである。
武田勝頼が自刃し、甲斐、信濃が戦場と化したとき、信蕃は家康の為に大活躍する事になる。
信蕃死後、長子の竹福丸の扱いが破格の厚遇だったのもわかる気がする。
信蕃のものと伝わる墓が田口城下の蕃松院にある。蕃松院は長子松平康国が 父の追福の為に建立した寺である。



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