松岡城・南城・古城

まつおかじょう・みなみじょう・こじょう




松岡氏は陸奥の安倍貞任の後裔で、前九年の役(1051)で安倍一族が源頼義に敗れ、 貞任の二男仙千代が乳母と共に漂白の末、松岡城のある市田郷に移ってきたといわれる。
当初は「古城」に居館を構え、南北朝時代に要害の地を求め、松岡城を築いたとされる。 当時は小笠原氏と共に北朝方として天竜川西岸をまとめ、東岸南朝方の知久氏や 香坂氏等と対峙した。
室町時代に松岡氏は最盛期を迎え、現在の市田、山吹、座光寺、上郷の一部を支配し、 現在も家臣の居館や見張り台といわれる所が点在する。
戦国期武田信玄が伊那に侵入してくると、松岡氏は降服し、飯富三郎兵衛(山県昌景)の配下に 属した。
織田信長の死後、伊那は徳川領になったが、豊臣方に通じていた松岡氏は改易を命ぜられ、松岡城 は廃城となった。
【上】松岡城北西より  天竜川段丘崖を利用した城で、北は間ヶ沢、南は銚子ヶ洞の谷によって 区切られており、西方が段丘上の平地につながっている。
<場所>下伊那郡高森町下市田
<行き方>南信州フルーツライン 松源寺入口看板を入る
<駐車場>松源寺駐車場 5台
<撮影日>2005年3月
<参考文献>『日本城郭大系』8、『高森町史』上巻前篇

『松岡城・南城要図』



【左上】四の郭(惣構え東郭)より主郭方面  現在松源寺が建っているところが五の郭(惣構え西郭)で 主郭まで規模の大きい郭、堀が連なる。各郭の高低差はほとんどない。
【中上】三の郭より松源寺方面  廃城後は付近一帯耕作地に変わり、堀の中は近年まで桑畑だった という。現在も二の郭までは耕作地。
【右上】主郭、二の郭間の堀切  中央に土橋がかかり、南側の堀底から東側段丘下へと道が続いている。

【左上】四の郭北側の横堀
【右上】三の郭北側の横堀
松岡城の現在の遺構については、見解が分かれている。 武田氏による大改修があったという説、松岡氏の強大な勢力からいって武田氏侵攻以前にはこれだけの 規模であったという説。松岡氏が大島城の築城経験から改修したという説などである。
確かにこの四の郭北側の横堀、その外側の土塁の構造は大島城のそれと類似している。 さらに三の郭横の堀切から連続して北側に回り込んだ堀は、二の郭間の堀切と連結して谷へと落ちる構造など、 土豪の城としてはあまりにも規模が大きく、複雑な造りである。
連郭式の原型は松岡氏時代として、武田氏時代に横堀の普請や堀切の拡大改修など、 武田氏による何らかの関与があったと思われる。
また、松源寺の西側の堀切から約70mの付近に三日月堀があったという伝承がある。

【左上】主郭土塁  耕作地となっていた為か、土塁はこの部分と松源寺裏でのみ確認できた。 二の郭間の堀に沿って約50p高の土塁が続いている。
【中上】主郭  主郭部分もかなり広い。松岡氏の勢力の大きさを物語っているようだ。
【右上】主郭から飯田方面の眺め  天竜川流域が一望できる。


『松岡城東麓周辺図』



【左上】主郭より南城方面  尾根上先端は城域ではなく、実際の城域はもっと西側段丘付け根部分にある。
【中上】尾根道より山麓虎口への横堀  主郭より東側段丘下へは緩やかな斜面である為、 小さい腰郭が多数ある。南沢口から尾根道を経て主郭に行く道と市場口から山麓虎口を経て 尾根道に合流する道がある。山麓虎口付近は尾根道から斜面を下る横堀、土塁などで防御されている。
南沢口、市場口はそれぞれ東山道とつながっていたと考えられている。
【右上】竪土塁  尾根道の外側、銚子ヶ洞の谷側には竪土塁を伴った堀があり、大規模な普請が 主郭から山麓にかけても行われている。

【左上】松源寺西側の堀切  現在の遺構ではここが西端となるが、西方約800mを通る 上街道(三州街道)との間に城下町が広がっていた。大手口となる。
【右上】伝三日月堀跡付近  南側から見たところであるが、南北に通る道が低地を通っている。 堀があったとしてもおかしくはないが、三日月堀かどうかは現在では判断が難しい。


〜松岡南城〜


松岡城の南側、銚子ヶ洞の谷を挟んでほぼ同じ高さの段丘上にある。
東方突端部は馬の背状の尾根となっているが、そこから広大な平場が西へ続き、 かなり退いたところに堀切が現れ、出丸、主郭、二、三の郭が堀切を挟んで存在する。
松岡氏一族の居城か、隠居城として築かれたといわれている。

【左】南城北西より  二の郭、三の郭は耕作地となっていて、わずかに堀切の痕跡が 残っている。
段丘上の南城への道は写真の先で途切れてしまい、田の畦を行くようになる。主郭南側から 下っていく道があったが、行き先は未確認。松源寺から徒歩約10分。

【左上】主郭、二の郭間堀切と主郭土塁  土橋でつながっており、堀切北側は自然の谷を利用している。
【中上】主郭  現在は林となっている。
【右上】出丸東側堀切  出丸の東西堀切は規模が大きく、尾根先端から後退している分、かなり 防御を意識して造られている。

【左上】出丸東側の平場  城域から尾根先端まで広大な平場があり、なぜ先端部を城域として 使用しなかったのかが謎である。先端から城域としてしまうと、人的、経済的に 維持管理できなくなってしまう為であろうか・・・
【中上】松岡城主郭方面の眺め
【右上】南側の眺め  座光寺北本城のある尾根が間近に見える。 この周辺は大小の城、砦類が 密集している。


〜松岡古城〜



松岡氏の始祖である安倍貞任の二男仙千代が最初に居館を構えた所といわれる。 ただ、その推定地は他にもあり、ここは見張所であるともいわれる。
現在は「夫婦杉」の大木と松岡氏の妻といわれる雲龍院殿の石碑があるだけである。
場所は松岡城の城下町があったといわれる場所の中心地付近で、松源寺からフルーツラインを 越えて約100mの所。


【左】堀跡か  南側、道を挟んで池と水路があるが、堀跡と思われる。 城域北側は谷となっており、松岡城の北側の谷である間ヶ沢の上部にあたる。
松岡城側の東は段差があり城域の境界かと思われる。規模は小さい。



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