耳取城
みみとりじょう

《別名》 鷹取城 小諸市耳取



佐久地域にあった大井荘の地頭大井光長は岩村田に本拠を置いて、自分の子を荘内の要地に配置した。 四男行氏は弘安年間(1278〜88)耳取の地に居を構えた。
城を構えたのは室町時代中期の応仁・文明の大乱の頃といわれる。天文12〜13年(1543〜44)頃、 この地方にも武田氏が侵攻してきた。耳取城主大井安満は武田氏に降り、その後も北条氏、依田信蕃とその子松平康国に仕え、 康国の上野藤岡移封にあたり、それに従って耳取城を去った。

【左】耳取城石碑  県道78号沿いに立っている。この付近は「三の丸」あたりであろうか。遺構はほとんど残っていないのだが、 千曲川の断崖とそれに交わる田切り地形(浅間山の火山灰地帯が侵食されてできた深い谷が通っている地形)によって防御されて いたため、城域の大枠は確認できる。  

【左上】耳取城 千曲川対岸より  「本丸」が千曲川断崖すぐ上付近、そこから「二の丸」「三の丸」と東側内陸へ連郭式に なっており、その北側から東側にかけて外郭群が取り巻いている、かなり大きな城域を持った城である。
【右上】玄江院  城域南側に接しており、この寺は弘治元年(1555)に城主大井政継が南方の白合にあった万福寺を 移築し、自らの法号をとって玄江院と称したと伝えられる。
この寺の背後には田切りを利用した空堀が東西に通り、前面も現在水田のところは浅い田切りだったようで、周囲をかなり 防御されていることがわかる。『小諸市誌』では出城・城主の居館を兼ねていたと推測している。

【左上】城域南側の田切り  写真左手方向が千曲川方面。谷の部分が水田となっているが、その先の断崖上が城域となる。
【右上】城域北面の火山灰層  城域北側には皿掛川が流れており、千曲川との合流地点付近はかなり高い断崖となっている。
これにより耳取城は地続きの東面を防御すれば、かなりの要害であることがわかる。現在東面の大手口付近は宅地・水田となっており、 遺構は無いようである。


〜感想〜
大井宗家である岩村田大井氏は大井城を本拠としていたが、文明年間に滅んでしまう。 しかし、その分流であった岩尾大井氏をはじめ小諸、 平原、小田井、望月諸大井氏などが佐久から小諸地方一帯を支配していた。
その中でも耳取大井氏は室町時代初期から宗家とは別の行動をしており、かなりの力を持っていたようである。〔『大系』〕
広大な城域を持っているのはその勢力に対応していると思われるが、「本丸」付近が最初の城域であり、それから 徐々に城域を拡大していったのであろう。自然地形を生かしたということもあるが、各郭の配置はかなり不規則である。
これは小諸付近の田切り地形を生かした城に共通している縄張りの特徴でもあり、 小諸城も武田氏時代まではこのような 雰囲気だったのではないだろうか。


行き方県道78号沿い、旧道との分岐から 100m程南の所に石碑あり
駐車場旧道との分岐の所に駐車スペース有り
撮影日2006年8月
参考文献 『日本城郭大系』8
小諸市誌編纂委員会編『小諸市誌』歴史篇(二) 小諸市教育委員会 1984年
信濃史学会編『信州の山城』信毎書籍出版センター 1993年
参考サイト城と古戦場」、 「城跡巡り備忘録