南熊井城みなみくまいじょう《別名》 熊井城
【上】松林寺 松本平東側の山地から西へ向かって下ってきた西端部台地崖を利用して 築城されている。 西、北側は崖、台地続きの東、南側に空堀が設けられている。 約95×100mの単郭構造と考えられるが、城内部、その周囲も耕地化されているため、 外側に郭があった可能性も否定できない。 ![]() ![]() 【左上】北側の崖 途中に腰郭が設けられ、外側に土塁が築かれているため、空堀状になっている。 城内へは北東隅、北の崖下から登ってきて、北側腰郭を通って北西隅から郭内へ通じるルート と思われる。 【右上】郭内部 現在耕地化されているため、内部には遺構が残っていないが、 虎口上部の北東隅には上部が平坦地になった土塁とそこに祠があり、 『市誌』でも指摘しているように鬼門除けとしての祠と櫓台があった可能性がある。 ![]() ![]() 【左上・右上】南側空堀 右上写真は空堀が西側台地下の松林寺裏へ開口している部分。 現在、空堀の東側半分は浅いので、後世に埋められたようである。 また、南東隅に東外側から堀を分断して、郭内部へと 道が付いているが、後世に農作業用に設けられたのではないか。 ![]() 【左】東側空堀 南東隅の郭内部への道から虎口のある北方面を撮影したもの。 左側が郭内部になる。虎口から徐々に堀の深さが浅くなっている。この部分も後世に改変 されたのかもしれない。 〜感想〜 単郭の方形館跡と思われるが、集落領主のものとしては規模が大きい。武田氏侵攻以前は 小笠原氏が直接関与していた可能性もある。 現在確認できる空堀の規模などから武田氏によって改修されて、使用された可能性が高い。 しかし、近くの熊井城、そして武田氏による支配中心地として 深志城(松本城)が完成した後は、 重要度は低くなり、中継地などとして利用された可能性がある。 |