宮本城
みやもとじょう

長野県北安曇郡小谷村中小谷


―史料からみた宮本地域―
天正11年(1583)5月、武田氏滅亡後、北安曇郡をめぐって上杉景勝と争っていた小笠原貞慶は、宮本の地を宛行う書状を二通発給している。
一通は5月13日付、宛名を欠いた小笠原貞慶の黒印状(『大町』190)である。前日の12日、「仁科表」において上杉軍との戦いがあり、それに関連して発給されたものと考えられる。小笠原氏は某に対して、去年からの働きを賞して本領6貫文のうえ、さらに宮本の内から15貫文を宛行った。
二通目は5月18日付、沢渡十人衆宛ての小笠原貞慶黒印状(『大町』192)である。以前に古厩氏の謀反に関係したとして捕えられた沢渡九八郎盛忠を赦免し、彼の本領を安堵したうえで発給された。その内容は「今回、出雲守(小笠原頼貞)が沢渡へ移ったところ、馳走をしたことは祝着である。褒美として宮本において百貫文を与える」といったものである。
沢渡十人衆は沢渡氏の被官衆であろう。貞慶の将出雲守の指揮下で上杉軍と戦い、その軍功によって知行を宛行われたことがわかる。

宮本城について史料上からは確認できないが、天正10年(1582)11月の時点では上杉方の西片房家・小谷衆によって黒川城が攻略されている(『上越』2593、2594)。しかし、翌11年3月には「千国十人之奉公衆中」に宛てて、小笠原貞慶が「千国跡職」を宛行っていることから、この頃に小笠原軍が宮本周辺まで北上していたことがわかる(『小谷』116頁)
したがって、天正11年の小笠原氏宛行状2通は、上杉方から攻め取った地を褒美として与えたものであろう。

『大町(文書番号)』…『大町市史』第二巻原始・古代・中世資料、『上越(文書番号)』…『上越市史』別編上杉氏文書集、『小谷』…『小谷村誌』歴史編

【上】姫川対岸からみた宮本城  城域を大糸線が南北に貫通したため、真っ二つになった城である。  

『宮本城縄張図』


―立地―
姫川東岸の小高い丘上に築かれた城で、南側は横根沢川の深い谷となっている。城域は現在、JR大糸線によって分断され、西側は姫川の流れで削られているようである。また、城域東側は堆肥センターの敷地、畑地になっていることから遺構は確認できない。
その外側には、松本と糸魚川を結ぶ千国道が南北に通っている。南方に姫川渡河点があり、街道の姫川西岸ルート・東岸ルートの分岐点にもなっている。
もう少し引いてこの地域を眺めると、北に平倉城、南に黒川城黒川館があり、宮本城はその中間に位置する。

―アクセスルート―

国道148号から宮本橋を渡って姫川東岸へ。そのまま道なりに北へ約400m、横根沢橋を渡ってすぐ左側。

【左】横根沢橋から宮本城方面 @(←番号は撮影位置、縄張図参照)
入口に車1台分の駐車スペースあり。横根沢沿いに西側へ入っていく。

―現況―

【左上】宮本城 東側からの眺め A
写真奥の林部分が城域。比高約20m。

【右上】主郭土塁 B
主郭には若宮社が祀られている。土塁奥は薮となっており、郭の状況はよくわからない。郭の西側はおそらく鉄道を通す際に、大部分が削られてしまったと思われる。

【左上】主郭から二の郭方面 C
二の郭から堀切付近は墓地となっているため、だいぶ改変されているかもしれない。

【右上】線路西側の郭 D
元々は東側と繋がっていたであろう部分。


【左】宮本橋から城域方面
宮本城からは立山平倉城が見通せる。

―感想―
『大系』では南方に位置する黒川城の砦か、としている。宮坂氏は「黒川館と同類の在地土豪層、例えば千国十人衆と呼ばれた人々の居館跡」と推測している。また、三島氏は街道封鎖の城としての機能に注目している。
比高や郭の大きさをみると規模の小さい城であるが、堆肥センター・畑地にどのような遺構が存在したのか気になるところである。もし、この部分を含めて城域だったとすれば街道を押える役割を果たせるであろうし、居館跡の可能性も高くなる。
現在の遺構は当時の城域からすれば、ほんの一部なのかもしれない。



行き方 国道148号から宮本橋を渡って姫川東岸へ。そのまま道なりに北へ約400m、横根沢橋を渡ってすぐ左側。
駐車場入口に駐車スペースあり 1台
撮影日2015年12月6日
更新日2015年12月11日
参考文献 『日本城郭大系』8
宮坂武男「宮本城」(同著『信濃の山城と館』第7巻安曇・木曽編 戎光祥出版、2013年)
三島正之「信越国境の防備―長野県小谷村の中世城郭―」(『中世城郭研究』11、1997年)
参考サイト土の城への衝動