望月城

もちづきじょう




望月城の累代城主であった望月氏は古代から東信濃に強大な勢力を持っていた滋野(しげの)氏の 一族で、保元の乱(1156)で活躍し、木曽義仲の軍の有力な部隊であったり、鎌倉時代に 入っても幕府内で重要な位置にいた。
中先代の乱(1335)では北条高時の子時行を奉じて鎌倉に攻め入った軍にも参加した。
しかし、信濃守護小笠原氏によって同年8月には望月城は落ち、以後、滋野氏一族は衰退し、望月氏も 新興勢力であった大井庄地頭大井氏の支配下に入った。しかしその後も望月氏は相当の力を もっていて、現在の望月城は室町時代に築城されたといわれる。
戦国時代には武田氏の支配下に入り、天正10年(1582)武田氏滅亡後は依田信蕃によって 佐久の諸城は攻略され、望月城も落城している。
【上】望月城南西側下より  鹿曲川(かくまがわ)が城下を南から西へと流れており、西から北へかけては 急峻な斜面である。

<場所>佐久市望月
<行き方>国道142号望月信号役場方面へ 県道166号沿い城光院から徒歩
もしくは県道151号望月トンネル手前を老人ホーム悠玄荘へ行くと反対側が入り口
<駐車場>城光院7台 悠玄荘前路駐1台
<撮影日>2004年4月
<参考文献>『日本城郭大系』8


【左・上】城光院山門、本堂  望月城西麓にある城光院は望月氏の菩提寺であり、境内は 居館跡であった。現在は遺構は見あたらない。

【左上・中上】西側登城口  城光院から80m程東へ行くと登城口がある。案内板があるので迷わず行ける。 ここからイッキに主郭まで上ると約15分。楽したい人は反対側の悠玄荘側に行けば、比高が ぐっと縮まり、すぐに主郭まで行ける。登りはじめに石垣(中上写真)が見えるが耕作地跡と思われる。
【右上】南方面の眺め  鹿曲川の谷が続いており、ずっと奥には 春日城が見える。

【左上】主郭  土塁に囲まれた約40m*30m四方の大きさで、北西側一部を除いて周りを郭で 囲まれている。
【中上】二の郭より主郭  主郭の切岸が見える。東から南にかけて主郭を囲んでいる。
【右上】三の郭  二の郭と同じ様な感じで東側から南、西へかけて主郭、二の郭を囲んでいる。 どうやら二、三の郭は耕作地であったようだ。均一に土地が均されており、そのおかげ?といって良いのか、 郭自体の形はよく残っている。

【左上】石造龕(せきぞうがん)  仏像を納める厨子で、その笠の部分が三の郭西側の隅にある。 笠には望月氏の七曜紋が入っている。
【中上】一の堀南東側  三の郭下北東から南東にかけて一の堀が通っている。現在真ん中の部分が 消滅しているが、南側と北側に残っている。
【右上】一の堀北東側  この部分が一番よく残っており、自然地形の防御が無い東側をここで 南北に堀を通して規模の大きい堀切とし、城域を守っている。

【左上】主郭北下の郭群  北側にはおおまかに3段になって郭が続き谷へと急斜面となっている。
【中上】二の堀  城域東側、一の堀から30m程外側に二の堀があり、わずかに南端部分が残っている。
【右上】二の堀外側の段郭  堀の外側にも郭が確認できる。だいぶ遺構は消滅しているで あろうが、望月城はさらに南東の尾根上に2qに渡って支城群があるという。

【左上】二の堀付近より主郭方面  三、二の郭とも比高はそれほど無く、二条の堀切が最大の防御 施設であったようである。
【中上】大手口か  城域北東部にあたり、ちょうど鹿曲川とは反対側の丘陵地側である。 この大手口と主郭に設置してあるポストの中に城跡周辺の見取り図があり参考になる。
【右上】大手より北側の眺め  この丘陵地帯は古代官牧の望月牧のあった御牧ヶ原である。

【左上】お姫水  「化粧水」とも言われる湧き水溜まりで、大手から約300m北東丘陵上に ある。城内の用水として使用されたのであろうか。
【右上】お姫水より城域方面  向こう側が鹿曲川方面で急峻な地形であるが、こちら側(大手側)は 防御が薄い。この状況からすると一、二の堀が防御の要であり、かなりの規模のものであったと思われる。



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