髻山城
もとどりやまじょう

《別名》 髻城 長野市若槻西条



永禄4年(1561)川中島の戦いにおいて、 上杉氏家臣宇佐美定行が立て篭もったという伝承がある。 この戦い以前は上杉方の城であったと思われるが、武田・上杉両氏の戦線は北上し、 野尻城飯山城の攻防となる。
永禄7年4月には野尻城が武田方によって落とされたが、すぐに上杉方が奪還する。
同年9月上杉氏家臣の直江実綱が堀江・岩船両氏に 武田軍の状況を通報させた文書に「敵もととり山へ小旗四五本にて武具致す由にて候」〔『信濃史料』12〕とみえ、当時武田氏が 利用していたことがわかる。

【左】髻山城 東側より  髻山城には大城と小城があり、写真左側の小さいピークが小城。
宇佐美定行が立て篭もった伝承は小城だが、「宇佐美沢」の街道端の山頂という説がある。〔『信州の山城』〕
東側麓を近世北国街道が通る。反対の西側には令制東山道筋に比定される古道がある。

『髻山城要図』


【左上】北側斜面の横堀  北斜面と西斜面に横堀・竪堀を駆使した大規模な遺構が確認できる。北斜面では北尾根を断ち切るように 横堀が設置され、東側は上部からの竪堀と接続している。
【中上】北斜面竪堀  横堀と接続する竪堀。上部帯郭直下から延びている。横堀と竪堀に囲まれた部分は削平地となっている。
【右上】北側帯郭  北斜面には規模の大きい帯郭が階段状になっている。

【左上】主郭西側虎口  石積みが残っている。手前腰郭部分がやや複雑になっているが、以前WCが建っていたようで、 改変を受けているかもしれない。〔「信越国境の防備」〕
【右上】主郭  南北約30m、東西約40mの広さがある。周囲を土塁で囲み西側と東側に虎口の切れ目がある。
また、東、南斜面は石切場だったようで、現在崩落がはげしい。かつては主郭の周囲を帯郭が取り巻いていたという。〔『信州の山城』〕
南東部分に大きい窪みがあるが、「ぬけ穴」と称されている。『信州の山城』ではのろし台跡と推考されている。

【左上】主郭より南西方面の眺め  長野市街方面となる。視界がよければ背後の 旭山城葛山城等も見えそうである。
【右上】主郭より東方面の眺め  麓に北国街道、平出の集落が見える。ここが峠で北へ越えると 矢筒城、 南は善光寺平へ通じる。

【左上】西斜面横堀  主郭西側虎口からそのまま西尾根を下っていくと、横堀によって尾根が分断されている。さらに ここから竪堀が下り、横堀の北端からも竪堀、そして下部では横堀となり、斜面を堀によって取り囲んでいる特徴的な 遺構がある。
【右上】西斜面下部の横堀  中央部分に土橋があり、虎口のようになっている。下部横堀の長さは約80m、 上部が約30m、竪堀部分は南側約50m、北側約70mとなっている。内部は明確ではないが階段状の削平地が 確認できる。


〜感想〜
「信越国境の防備」で三島氏は西斜面の遺構について、「銃砲戦に対応して築かれた防御施設ではなかろうか」と想定され、 武田氏よりももっと新しい時代のものではないかと印象をかかれている。

北方から善光寺平に入る街道の峠部分に位置するこの城は、武田方にとっても上杉方にとっても重要な城であったであろう。
永禄期川中島の戦い以降は武田方がおさえたと思われ、長沼城の前衛としての役割を担ったと思われる。 武田氏滅亡後、上杉景勝が川中島四郡を押さえた。髻山城の斜面にある大規模な堀の遺構はかなり特徴的なものであるが、 この北方にある矢筒城若宮城の 横堀遺構に竪堀を組み合わせた発展的な縄張りと感じる。
若宮城の所で書いたが、この大規模な堀は誰によって築かれたのか、この疑問を解く前準備として上杉景勝の築城方法等まだ勉強課題が多い・・・


行き方県道60号平出神社の所を西へ入り約500m。 左手に髻山登山道に向かう林道入口有り。
そこから徒歩で案内板に従って主郭まで約30分。
駐車場林道入口 2台
撮影日2006年12月
更新日2006年12月11日
参考文献 長野市誌編さん委員会編『長野市誌』第12巻 資料編 原始・古代・中世  長野市 1997年
信濃史学会編『信州の山城』信毎書籍出版センター 1993年
三島正之「信越国境(牟礼盆地)の防備 −矢筒城・髻山城をめぐって−」『中世城郭研究』第11号
中世城郭研究会 1997年
参考サイト近江の城郭」 「北緯36度付近の中世城郭