村上氏館・村上義清墓所むらかみしやかた・むらかみよしきよぼしょ〜村上氏館〜![]() ここは村上氏が旧更級郡村上郷(千曲川対岸の地)から坂城郷に移ってきて、葛尾城築城と同時期に造られたと 思われる居館である。葛尾城の南東麓にあり、村上氏の菩提寺である満泉寺を中心にした方170mの大きさを誇っていた。 内郭とその周りを外郭として堀をめぐらしていたようである。 現在は満泉寺の周囲は宅地化しており、遺構はほとんどないが土塁と堀であったと思われる水路が わずかに確認できる。
![]() ![]() 【左上】満泉寺本堂 屋根には村上氏の家紋が見える 【右上】満泉寺西側の土塁 水路は堀であったと 思われ、その内側にあたる現在の墓場の所が土塁状になっており、満泉寺の北側へと続いている。 〜村上義清墓所〜![]() この墓所は第三代坂木代官長谷川安左衛門利次が、名家遺跡の忘失を憂え、義清の墓所建設を思い立ち、 明暦3年(1657)義清の玄孫義豊や村上氏の臣出浦氏の子孫、正左衛門清重らにはかり、自ら 施主となって出浦氏所有の墓所に、義清供養のための墓碑を設立したものである。〔現地解説板〕
![]() ここは墓というより供養塔なのであるが、江戸時代から保存されてきたものであり、 地元の人たちによって大切にされているのであろう。現在周りは小公園化されており、上屋と柵がきれいに 改修されている。 〜光源寺 (村上義清建立供養塔)〜光源寺は木曽義仲の家臣であった堀光政が親鸞上人の弟子となって創建した寺である。村上義清は永禄11年(1568)10月3日、この地で故国を偲び、父の冥福を祈って供養塔を 建立した。 義清はそのまま信濃への帰還かなわぬまま、天正元年(1573)根知城で死去したといわれる。 〔現地解説板〕 ![]() ![]() 【左上】光源寺本堂 【右上】村上義清建立供養塔 本堂裏手にある。
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