妙義山城・釜井館
みょうぎさんじょう・かまいやかた

塩尻市洗馬



【左】奈良井川対岸(東側)より妙義山城

〜三村氏〜
妙義山城、釜井館はは西洗馬(せば)を中心にして奈良井川西岸に勢力を張っていた 三村氏の居城、屋敷と考えられている。
三村氏は『吾妻鏡』によると、鎌倉時代初期には鎌倉に居住し、将軍に直接奉公する御家人だった。 三村氏の出自は定かではなく諸説あるが、信濃には鎌倉時代末期から南北朝期に洗馬荘地頭として入ったと思われる。
信濃における三村氏が文献に登場するのは室町時代初期の明徳元年(1390)である。 応永7年(1400)の大塔合戦で、三村氏は反小笠原の軍におり、滋野氏と一緒に一軍を構成している。 しかし、次第に三村氏も小笠原氏の傘下に入ったとみられる。
妙義山南麓にある長興寺の寺伝によると大永7年(1527)に三村忠親が同寺を開いたという。 三村氏の居城は朝日村西洗馬の武居城であった。 ある時期に芦ノ田の釜井庵に屋敷を構え、背後に妙義山城を 築いたといわれるが、長興寺(ちょうこうじ)を開いた時期と重なると考えられる。
天文年間には、小笠原長時に同心しているが、天文17年(1548)7月19日の 塩尻峠の戦いでは 三村駿河守は西牧、二木氏らとともに小笠原氏に叛き、小笠原方が負ける要因をつくった。
その後、武田氏に属したが弘治元年(1555)に反乱の兵を起こし、それが原因となり直系一族は滅亡したと 考えられる。

〜妙義山城〜

【左上】釜井館下より妙義山城  東麓にある釜井館から約15分で山頂の主郭に着く。尾根は主郭から尾根が 南東、南西、北東、北西方面と四方に延びる。
【中上】北東尾根先端部の郭  館背後の墓地から大手道と思われる山道を登っていくと、北東尾根上にでる。 この郭は大手道に上部から横矢がかけられる位置にある。削平は十分ではない。
【右上】二の郭  北東尾根を登っていくと主郭手前にある郭で、規模は小さいがこの城唯一の枡形虎口が確認できる。


【左上】主郭  約35×30mの規模で、神社背後に一部土塁が残る。二の郭より入った所から段差が一段ある。
南東尾根側には堀切があり、その先尾根上には郭は無く、竪堀を伴った堀切が1条あるだけ。
【中上】主郭背後の堀切  土橋が付いている。 堀切を渡って40m程西へ進むとそこから北西、北東尾根に分かれる。
【右上】南西尾根  平坦な道が100m程続き、高圧線鉄塔のある場所に出る。その背後に竪堀を伴った堀切 があり、その先は長興寺山へと高度を上げていく。この尾根にも郭らしい場所は無いが、鉄塔の部分は 背後に堀切があり、小さいピークとなっているので、郭があった可能性もある。


【左上】南西尾根上より東側の眺め  現在、城域内で唯一見通しの利く場所。正面の平地には 中山道(木曽路)が通り、写真右方向が木曽方面。正面の山地の向こう側が西条地区で、 飯縄城などがある伊那方面へ通じる街道筋。
【中上】北西尾根  尾根上に細長い削平地があり、その先端部は堀切、竪堀等で防御されている箇所が 二ヶ所ある。高低差がある部分でもあり、イッキに下っていき、城域が終わったところで再び上っている。
【右上】北方小尾根の小郭群  北西、北東尾根に挟まれた部分の中腹部より下には北へ向かって小尾根がある。 そこを中心として無秩序に小郭が展開している。飯縄城の小郭群を想起させる。


〜釜井館〜

三村氏の居館があった場所と考えられており、妙義山城の東麓にある。 江戸中期には構・釜井ともいわれ、江戸時代の紀行家菅江真澄(白井秀雄)が 「釜井庵」を拠点として過ごし、江戸末期まで寺子屋塾があったという。
釜井庵の建築年代は18世紀中頃と推定され、その後何度も改造されている。 現在の建物は平成10年3月に修復したものである。〔現地解説板より〕

【左】釜井庵と城下方面  釜井庵のあるところが館跡といわれる。また、そこから東へ下ったところが 本洗馬地区で、三村氏によって、城下町として形成されたといわれ、屋敷割や道路が整然としている。

【左上】釜井庵南側  歴史の里資料館も併設されており、周囲も宅地や耕作地などになっているため、 遺構といえるものは確認できないが、周囲には削平地が数段存在する。
【中上】伝説「夜泣石」  妙義山登城口にある。解説板には洗馬一族主従が信玄に謀殺された頃から夜更に すすりなくと書かれている・・・
【右上】城下の元町付近  南北に一本広い通りがあり整然としている。ただ、 三村氏当時の城下集落がここに置かれていた確証はないようだ。


【左】長興寺山門
釜井館から南へ約500mの所にある。 寺伝によると大永7年(1527)に三村忠親が同寺を開いたという。三村氏とのゆかりが 深い寺である。三村氏滅亡後も武田信玄はすぐに安堵状を出したという。

〜感想〜
主郭から四方に尾根が伸びており、防御を考えるとあまり良い選地とはいえない。郭は主郭以外は削平が 十分行われていないものが多く、南東、南西尾根には郭といえるものが無い。だが、北東尾根と北西尾根との 間の北斜面には無数の小郭が階段状に配置されており、西条地区にある 飯縄城と似た構造である。 要所に麓まで到達するような竪堀があるのも似ている。
『塩尻市誌』では小郭のある北斜面下が水の手であるための構造ではないかと推測している。 館が北斜面麓にあった可能性もあるが、現在その裏付けはとれない。
堀切、郭の発達度から見ると北西尾根が一番の見どころで、この方面は三村氏の本拠があった朝日村方面で あることは、なぜ城を武居城から妙義山城へ移したのかという疑問と共に興味深い。


行き方塩尻市街より県道292号を 西へ 奈良井川(太田橋)を渡って右急カーブの所を左へ入り、道なりに約1q
(歴史の里資料館の案内板あり)  釜井庵裏の六角堂から墓地脇を登り、主郭まで徒歩約15分
駐車場5台
撮影日2006年5月
参考文献『塩尻市誌』第2巻歴史 1995年