長沼城

ながぬまじょう




長沼城は室町時代に島津氏がこの付近に移り住み、領主として館が築かれたものと思われる。
武田信玄が北信濃に侵攻してきて、対上杉との戦線が、 飯山城野尻城へと北上すると、 越後国境攻防用基地として再建工事が行われた。この再建は永禄11年(1568)馬場信房によるものと され、城代として海津城から市川梅隠、原与左衛門が入ったという。
武田氏滅亡後も森長可、上杉景勝と入り、川中島四郡の支配に海津城と共に重要視された城である。
江戸時代になると長沼藩一万八千石として佐久間氏が入ったが、元禄元年(1688)に移封され、 幕府の直轄領となり廃城になった。
<場所>長野市穂保
<行き方>国道18号津野信号を東へ
県道368号沿い守田神社、貞心寺付近
<駐車場>守田神社、長沼体育館駐車場借用
<撮影日>2004年7月
<参考文献>『日本城郭大系』8

【上】長沼城の碑  現在遺構は無いに等しい。千曲川を東側の要害とし、西側は現在の県道368号 が旧堀跡の外周をコの字型に迂回しているという。碑は貞心寺の北東約80mの堤防沿いにあり、 碑の背後の土盛りが本丸土塁の跡といわれる。
平城であるが武家屋敷も総構えの中に取り込んでいた、 海津城よりも古い形態を残した近世城郭への移行期の縄張りだったという。

【左上】城域南部より長沼城付近の眺め  現在は人工堤防、河川敷によって破壊されており、 リンゴ畑が広がる付近が主要部であったと思われる。堤防の先、遠くの大木がある場所が 碑のある所。
【右上】土塁上にある石塔、祠  本丸土塁の一部といわれる上に現在は石塔や祠が建っている。

【左】土塁 北側より  人工堤防の下にわずかにあると言った感じ。
【上】土塁より貞心寺方面  赤い屋根が貞心寺で周りはリンゴ畑が広がる。

【左上】貞心寺  ここは初代長沼藩主佐久間勝之の嫡男勝年の居館跡という。
【右上】土塁より北側 守田神社方面  守田神社まで約200m。この間に本丸、二の丸があったと思われる。

【左・上】守田神社  碑の脇にある案内板によるとこの付近が本丸らしいが、県道の屈折具合 からすると、この付近は城域の北辺ではないだろうか。

【上】妙笑寺 本堂と山門  守田神社の北約100mにある寺。


【左上】城域南側  古い家並みが続く直線の道で西側を回ってきた県道が南側でこのように幅員が 広くなり、約500m直線路になる。この部分が町屋だったのであろうか。南端に寺院が集中しており、 これも何らかの意図が感じられる。そこで県道は屈折して、ふたたび直線路となる。
【右上】長沼神社  その直線路沿いにある神社で歴史は古く平安時代に遡る。永禄11年、 信玄は神殿を再建し、木像、笛、獅子頭、薙鎌を奉納した。また、自ら欅の木を植えたという。
〜現地案内板より〜


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