名子城なごじょう![]() 名子城についての史料はなく、確かなことはわからない。平安時代末期に南信濃源氏で 船山城主 の片切(片桐)氏の分流片切景重が名子郷に分知し、名子氏と称したという。鎌倉時代の名子氏は 春近領内名子郷の地頭代として郷民を支配した。 「吾妻鏡」仁治2年(1241)9月2日の条に、信濃国住人奈古(名子)又太郎が 承久の乱の軍功を追録されたとある。 名子氏が日常の館の背後である要害の地に名子城を築いたと考えられている。 天正10年2月織田氏の伊那侵攻によって落城した。
【上】名子城 東下より 天竜川の段丘を利用した伊那地方の典型的城。北側は 唐沢川、南側は大名川によって深い谷を形成し、段丘上に繋がる西側は西郭と堀切で 防御している。名子氏の館は南東約600m、現在の本光寺一帯と推定されている。 『名子城要図』![]() ![]() 【左上】本郭 西側 西側は土塁が約2.5m高あり、次第に低くなるが周囲を取り囲んでいる。 【右上】本郭 東側 馬蹄形をしており、東西約70m、南北は東部で72m。主要な 郭は一つだけだがかなり広い。 ![]() ![]() ![]() 【左上】西郭との堀切 現在西郭は老人福祉センターとなっている。空堀はだいぶ埋まっているが、 形跡はうかがえる。 【中上】北副郭 本郭の北側下一帯についている。 【右上】本郭より東側の眺め 現在の松川町中心部から天竜川、対岸まで望める。 武田氏の築いた大島城は南東へ約3q。 |