中塔城
なかとうじょう

《別名》 中野城・小室城・中洞小屋 松本市梓川梓



中塔城は西牧氏の本城である北条城の詰城として築城されたものと考えられている。〔『大系』〕
「二木家記」によると天文19年(1550)小笠原長時は本城である林城を武田氏によって落とされた後、二木寿斎の勧めによ り中塔城に籠城した。
籠城三日目には武田信玄が中塔城の根小屋まで迫り、中塔城の八合目まで攻め寄せてきたが、城兵二千人ばかりをもって これを切り崩し、敵の首を二百余りとったこと、その後に越後から上杉謙信が川中島を経て、村上氏と共に小諸へ侵攻してきたので、 信玄は諏訪へ退却したことなどが記されている。
その後武田氏滅亡の約一月前の天正10年(1582)2月4日には岩岡氏が武田氏と縁を切って、ここに籠城したという。 〔「岩岡家記」〕
【上】小室付近からの中塔城  小室は「二木家記」によると武田氏が中塔城を攻撃後、陣を張った場所として記されている。

中塔城は金比良山頂からさらに西方奥へ登ったところで、かなり奥まったところに位置する。さらにその尾根は2000m級の山々へと 続く。東側麓の中塔集落へは尾根が二股となって延びてきている。登り口は集落の阿弥陀堂脇から北側の尾根を登っていく。 (約1時間)


【左上】金比良山頂付近の尾根道  馬の背状の尾根を行く。城域に入るまでは遺構らしきものは見当たらない。
【中上】階段状の郭と登山道  郭は狭い尾根上に階段状に普請されており、道はその南下を通る。途中小規模な堀切が確認できる。
【右上】笹原の平地  階段状の郭を登りきると平坦地がある。東側に一郭、奥の西側に写真の広大な郭。 道が真ん中を通っており、その両サイド(南北)がやや高くなっている。完全な平坦ではなく自然地形に近い凹凸があるが、 「隠れ城」の雰囲気は十分ある。


【左】阿弥陀堂上方より中塔集落方面
中塔集落は北黒沢川と南黒沢とに挟まれた要害の地にある。
合流地点には「とんがり屋敷」 という館跡があり、別名「佐渡屋敷」とも呼ばれ、岩岡佐渡が詰めていたという伝承がある。〔『梓川村誌』〕


〜感想〜
普請の規模としてはそれほど大規模なものではなく、広大な平坦地は自然地形をほぼそのまま利用しているようである。
そして標高1250m、比高450mという山奥にあり、詰城として多くの人数が長期間にわたって隠れるには都合のよい 場所といえる。
中塔城が登場する史料として「二木家記」「溝口家記」「岩岡家記」等があるが、いづれも慶長年間に執筆された記録である。 よってそれぞれの家の正当性を示そうという意思が入ったり、不正確な部分があるため、記述をそのまま信じるわけにはいかないが、 小笠原長時が武田氏に攻められ、中塔城に立て籠もったことは「二木家記」「溝口家記」に記されており、確かなようである。 しかし「二木家記」がいうように天文21年まで籠城し、その間に武田氏が何度も来襲したとみるのは、兵糧米の補充があったとしても、 実地の立地条件を見る限り厳しいであろう。 『梓川村誌』にいわれているように、「溝口家記」の「半年ばかり抱えていた」という記述のほうが妥当と思われる。

中塔城の城主・築城年代についても不明な点が多いが、もともとこの地は西牧氏が鎌倉時代より入部していた地であり、 戦国期になると諏訪氏や小笠原氏との関係で史料上にも登場する。西牧氏は深志小笠原氏とは敵対関係にあり、16世紀に入る頃には 小笠原氏によってかなり領地を削られ、天文3年(1534)の時点で、中塔城は小笠原氏の重臣となった二木氏が城主となって いた。〔『梓川村誌』〕
おそらく信濃守護として小笠原氏が深志に入り、西牧氏との間で緊張関係にあった時期に西牧氏によって築かれたのではないか。
ちなみに西牧氏と同族関係だった二木(ふたつぎ)氏は、西牧氏から離反して深志小笠原氏側に付いたことにより中塔城主となり、 転身に成功した。その後は武田氏→ 深志小笠原氏→武田氏→武田氏滅亡後は小笠原貞慶に従っている。
在地の小領主は自分たちの家を存続させるために誰の下に付くべきかを、そのときの状況により判断し戦国期を生き抜いてきた。 二木氏はその典型的な頭の良い領主であったといえる。


行き方 中塔集落西側背後の阿弥陀堂より金比良山方面へ徒歩。
もしくは梓川ふるさと公園より林道を北黒沢川方面へ向かい、 金比良山西側尾根部分から徒歩。
約1時間。
(ルートの詳細は下記参考サイトを参照願います)
駐車場公園駐車場もしくは林道脇路駐
撮影日2007年12月
更新日2008年4月23日
参考文献 『日本城郭大系』8
梓川村誌編纂委員会編『梓川村誌』歴史編 1994年
小穴芳実編『信濃の山城』 郷土出版社 1988年
参考サイト埋もれた古城」 「城と古戦場