天正寺仁科氏館てんしょうじにしなしやかた![]() 信濃の名族仁科氏は大和の古代氏族安曇氏が北陸道を北に進み、その支族が奈良時代に松本平北部に 根拠地を置き、仁科氏を名乗ったのが始まりといわれ、戦国時代まで約500年間安曇地方に勢力を 保っていた。 初めは現在の大町市社の館之内にいたが、仁科庄の拡大に伴い、鎌倉時代末期に現在の 大町市天正寺に居館を移した。 仁科氏最後の城主であった盛政は武田信玄、上杉謙信が信濃各地で戦っていた頃、 武田信玄に従い、佐久・小県地方を転戦していた。この時、留守役の家臣達が上杉方からの誘いに 乗り、武田氏に抵抗の姿勢をとった為、武田氏に攻略され、仁科盛政は甲斐に連れ去られ殺された。 これにより仁科氏は500年の歴史を閉じたのだが、その後の安曇地方の民政を安定させる為に 信玄の五男晴清に仁科家の名跡を継がせ、仁科五郎盛信と名乗らせた。 盛信は仁科氏の居館を修築し、10年に満たない期間であったが、民心をとらえていたようである。 しかし、天正10年(1582)の春、織田信長が信濃に侵攻してきた為、盛信はこれに対抗し 高遠城に籠もって激しく戦い、壮烈な死を遂げた。 ![]()
【左】天正寺山門 元禄元年(1688)建立。左側が墓地になっているが、居館当時のものか 不明だが土塁を形作っている。そしてこの山門手前には水路が走っており、当時は水堀が土塁外側を流れて いたのではないか。 ![]() 【左】本堂 居館跡の中心部にあたる。周りには水路が走り、西隣の大町西小学校から表御所川、 裏御所川が居館の中を通って、東へと流れている。当時は水堀が居館の周りを二重に囲んでいて、 川の水は堀に注がれていた。 ![]() ![]() 【左上】御所川 大町西小学校から本堂裏手北側を東へと流れている。現在は小川であるが、 当時はここに内堀があったと思われる。 【右上】北堀跡 昭和57年に発掘調査が行われ、幅約11m、深さ約3m、片薬研状の断面を持つ 堀で、自然の窪地を掘り深めて整備したものであることが確認された。現在も遺構をよく残している 唯一の場所で、大正時代の初め頃までは水をたたえていたとの事。内側には土塁も確認できる。 ![]() ![]() 【左】居館南側水路 山門南側を西から東へ流れている。 【右】居館西側水路 表御所川と裏御所川をつなぐように南北に流れており、このさらに内側にも 内堀跡になるのであろうか、細流が流れている。 |