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![]() 大網城に直接関係する史料はない。 天正6年(1578)9月17日付、大網(おあみ)郷中宛ての仁科盛信朱印状では、「以前から行なっているように、今秋から大網へ移住する者には、今年から3箇年の間、諸役を免除する」としている(小谷村・武田氏所蔵〈『戦武』3028〉)。 これより8日前、国境の越後側に位置する根知城の城将、赤見小六郎が武田方への忠節を誓っている(練馬区・石井進氏所蔵「武田古案」〈『戦武』4281〉)。 したがって先の朱印状は、武田氏の越後進出への中継拠点とすべく、大網郷へ人を集住させるためのものだったと考えられる。 この時、越後では上杉景勝と景虎との間で、謙信死去後の跡目相続争い(御館の乱)が続いており、国内が混乱している最中であった。 武田氏滅亡後、織田信長より安曇・筑摩両郡を宛行われた木曽義昌は、すぐに大網宗兵衛尉へ宛てて「信玄・勝頼両代の時と変わらず扶持するので、今後奉公するように」と黒印状を送っている(小谷村・武田氏所蔵〈『大町』通史編p.422〉)。 宗兵衛尉は大網郷を統括していた土豪であろう。 木曽氏は同日付で、姫川対岸の大所地区に本拠を持つ大所豊後守へも同様の黒印状を送っている(小谷村・太田氏所蔵〈同書同頁〉)。 地誌関係の諸本を参照すると… 『北安曇郡志』(大正12年〈1923〉刊行)では「大網城」の項で、弘治2年(1556)、武田氏の将である山県昌景が平倉城を攻めて飯森春盛を滅ぼした後、上杉氏に備えるために築城したもの、としている(実際に平倉城を陥落させたのは弘治3年)。 『大系』は『北安曇郡志』を参照したと思われ、上記と同内容の記事である。 『小谷村誌』は城地名の中で、大網の「城の越」を取り上げており、集落の西南小高い所の平地で、発電所工事によって遺構は消滅したことが書かれている。後述するが、発電所工事というのは誤りで、この地には鉱山の精錬所が建設されたため、遺構のほとんどが消滅したのである。 また、同書には「まんど様」地名があることも書かれている。宮坂武男氏は「万燈様」を意味するとしたうえで「お盆の万灯会から出た地名で火を燈したことによる地名とすると狼煙台の名残とも考えられる」としている。 『戦武』(文書番号)…『戦国遺文』武田氏編、『大町』…『大町市史』第二巻原始・古代・中世 【上】「城の越」地籍付近 写真中央の林の中に遺構の一部が残存する。 この道は千国道(塩の道)のひとつで、平岩から姫川を渡って段丘崖を登りきったところ。また、同所には塩の道の案内標柱があり、「荷換峠」と書かれている。 『大網城縄張図』―立地― 越後との国境の地、姫川右岸の段丘崖上にある。城域は千国道(塩の道)に面しており、同道はこの先、大網集落から大網峠を越えて越後に入る。 ―アクセスルート―
国道148号から平岩方面へ下り、姫川温泉を通りぬけて大網集落へ向かう。集落の中央に古宮諏訪神社があり、境内に駐車させてもらった。 【右上】塩の道 諏訪神社から塩の道を大網峠とは逆方向へ行く。写真は案内表示がなく迷う分岐であるが、よく見ると右の道に白く「塩の道」と書かれている。 ![]() 分岐を右へ登ると、一番上の写真の場所に出る。諏訪神社から徒歩約10分。さらに城域に近づくと右手に水槽?がある。 この周辺は、真那板山北麓に所在する地蔵鉱山の精錬所跡地である。 『小谷村誌』社会編(p.188)によると、「昭和18年、鉱石運搬用に4kmにも及ぶ索道を架設し、索道の終点城の越地籍には、山の傾斜地を利用した階段状の精錬所が建設された。その当時は、大網地区も朝から索道が動き、従業員も百名を越えるにぎやかさで活気に満ちていた。ようやく軌道に乗ったかに見えたが、太平洋戦争の激化のため閉山の止むなきに至った」と書かれている。 同書に地蔵鉱山の精錬所写真が掲載されているのだが、その場所が大網城の場所と思われる。 YouTubeに、地蔵鉱山についてのニュースがアップされていたのでリンクを貼っておく(地蔵鉱山)。1分56秒あたりに建設途中の精錬所写真が出ている。 ―現況―
水槽の左手にみえる林の中に入ると小山があり、写真のように堀切状にえぐられた部分が確認できる。精錬所を建てるのにここをえぐる必然性は薄いと思われるため、堀切がそのまま残された可能性が高い。 【右上】堀切から虎口部分 A 石積みは精錬所建設の際のものであろう。その裏手から郭だったと思われる削平地に入ることができる。
建物の基礎部分コンクリートが削平地内部にそのまま残っており、精錬所の跡地であることがわかる。したがって、ここに遺構は見いだせない。 【右上】階段状の精錬所跡 C 削平地の西側、姫川の段丘崖を利用して建設された精錬所のコンクリート基礎部分がそのまま残っている。
この部分も精錬所に関係する跡であろう。 【右上】土盛内部 E 馬蹄形状に土塁で囲まれている部分だが、精錬所があった当時の写真を見ると、もはや城の遺構が残っているとは考え難い。
写真右上が城域となる。 【右上】城域から大網集落へ向かう途中 塩の道を東へ下っていくと大網集落を通り、大網峠へと向かう。 ―感想― 城域に残る小山が大網城の残骸であろう。昭和初期、ここに精錬所を建設してしまったことが悲劇である。 史料からみると、武田信玄が小谷筋を北上していく過程で、大網を統治下に納めたことは想定できる。 しかし、大網峠を越えるとすぐ越後国という当地は、まさに「境目」の地であるため、武田氏権力の浸透は期待できなかった。そのため武田氏は大網郷の土豪である大網氏を懐柔し、大網の住人を通じて越後の情報を収集したり、交易を行なっていたと考えられる。 したがって、大網には交通監視を主目的とした小規模な城が存在していた可能性が高い。 勝頼期には、越後根知城や不動山城を押えていたことが確認できるため、大網は宿場・荷物輸送の中継基地としての役割も果たしたと思われる。 木曽義昌が安曇・筑摩両郡を与えられた後、すぐに大網氏へ黒印状を送ったことは、上杉氏が小谷筋へ侵攻してくることを防ぐために、まず彼を懐柔する必要性があったことを物語る。
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