大井城

おおいじょう




大井城は鎌倉時代から室町時代にかけて佐久地方東部に勢力を振るった大井宗家が本拠地とした城である。 当時は国府をしのぐほどの繁栄振りであったが、文明16年(1484)更級、埴科郡から 小県郡にかけて勢力のあった村上氏の攻撃によって岩村田の城下町を焼き払われ落城。 大井宗家は滅亡した。
その後武田信玄の佐久侵攻により、大井氏支族で当時の城主大井貞隆は追われて 長窪城に 移り、天文12年(1543)、そこも攻められ生け捕りにされ甲府に送られた。
武田氏滅亡後は徳川家康麾下依田信蕃の支配下に置かれるが、やがて廃城となった。

【左】湯川対岸より王城  大ケヤキが目印になる。

城跡は南北700m、東西100m前後に及び東は湯川の断崖、西は南北に走る田切によって 形成された台地上にある。
堀切によって三区分され北から石並城(いせならびじょう)、王城、黒岩城といわれ、 総称して大井城または岩村田館と呼ぶ。
<場所>佐久市岩村田
<行き方>国道141号岩村田信号を東へ
約500m昭和橋手前
<駐車場>無し 近くの龍雲寺、円満寺の駐車場借用
<撮影日>2004年4月
<参考文献>『日本城郭大系』8


【左上】湯川対岸より王城、石並城  写真右側が石並城で構築年代は石並城がもっとも古く、 続いて王城、黒岩城の順とされている。東側の湯川からは10m程の断崖となっている。
【中上】石並城西側  湯川の反対側は写真のようにいくらか段差が認められるが 岩村田の城下方面になだらかに下っていく。北側の城域境は判別しがたい。
【右上】石並城より湯川の眺め  向こうの断崖上が王城。東側の見通しは良い。

【左上】石並城より王城北側の堀切  天然の堀切であろうか。王城は周り全体が断崖に近い状態である。
【中上】石並城側堀切部  かなり崩れやすくなっているので、当時と比べると少し地形が 変わっているかもしれない。
【右上】王城側堀切部  王城の断崖には何カ所か穴が開いていた。いつの時代のものかわからないが 入れないように柵がしてあった。

【左・上】王城郭内部南側  大ケヤキが東側からよく目立つ。内部は公園化されており、遺構らしきものは 見あたらない。

【左上】王城郭内部北側
【右上】王城より黒岩城の眺め  王城と黒岩城との間は現在県道が走っている為、堀切の状態が どのようなものだったのかわからない。

【左】黒岩城東側  東側はやはり断崖。すぐ下に宅地が広がる。手前が王城との間を走る県道。
【上】黒岩城郭内部  内部は耕作地となっており、こちらも遺構は見あたらない。

【左上】黒岩城西側  石並城と同じように段差は確認できるが、なだらかに下っていく。
【中上】黒岩城南端より岩村田城の眺め  向こうに見える林の所が 岩村田城で、約500m 南に位置する。江戸時代末期に岩村田藩主内藤氏が作りかけで明治を迎えてしまった城。
【右上】黒岩城南端部  コンクリートで固められてしまっているが、断崖であったと思われる。



城館探訪〜長野県〜へ戻る