大島城

おおしまじょう




大島城は別名台城といわれ、平安時代末期に船山城 主片切(片桐)為行の第八子八郎宗綱が、大島郷 へ分知して大島氏を称したといわれるが定かではない。
その頃は小規模な城であったろうが元亀2年(1570)信玄が飯田城代 秋山信友に命じて大修築を行い上洛戦の為の拠点とした事により、現在見られるような規模となった。
その後天正10年(1982)織田軍が伊那に侵攻し、飯田城を落とし、2日後大島城に迫った。 その時、大島城には信玄の弟信廉らが在城していたが、有力な武将は織田軍の進撃に驚き、夜中逃亡し、戦わずに 落城したという。

【左】天竜川の対岸より主郭方面

<場所>下伊那郡松川町元大島
<行き方>国道153号と伊那南部広域農道との
立体交差を東へ入る 道なりに700m
台城公園
<駐車場>公園駐車場20台
<撮影日>2004年1月
<参考文献>『日本城郭大系』8、『戦国の堅城』


現在、三ヶ月堀の北側が公園駐車場。 郭内はほとんどマレットゴルフ場と化しており 少し興醒め。しかし、複雑で大規模な堀、二重になっている三ヶ月堀など見所は多い。

【左上】丸馬出前の三ヶ月堀  二重になっており規模も南北に80m程ある壮観なものだ。
【右上】大手口  丸馬出の内部は現在民家があり堀など一部埋められたようである。 大手口の土塁は現存しており、内部は三の郭になる。

【左上】三の郭南部分の土塁  南部分には弓道場が建っている。公園化が著しく進んでしまっており、 城の保存としてはどうかと考えてしまう。
【右上】三の郭北部  北部から二の郭との間、ちょうど堀の中に島状にひとつ郭があり、これは二の郭の馬出になる。 堀が二重になり、防御を固めている。

【左上】二の郭虎口  各郭の周りは大規模な堀が囲んでおりそれぞれ独立している。二の郭は主郭方向の 東側以外は周りに土塁が確認できる。
【中上】二の郭  かなり広い郭だが、マレットゴルフのコースと遊具が場所を占めている。
【右上】物見櫓跡  北西角の部分に小山があり大手方面の見通しは利きそうだ。

【左上】二の郭南部より三の郭南部方向  堀を挟んで向こう側に三の郭が見える。三の郭は 南側が東方向に細長く延びており、二の郭の所まで囲んでいる。その部分である。
【右上】二の郭より主郭方面  東方向、堀を挟んで向こう側が主郭。

【左上】主郭  三の郭から主郭まで大きさはほとんど変わらない。東側はそのまま天竜川へと崖に なっている。
【中上】主郭北部の土塁  この下20m程の所に井戸がある。
【右上】主郭より北側の眺め  林に隠れて見通しは悪いが天竜川の流れが見える。

【左上】井戸跡  周りを土塁で囲んであり、外から判らないようにしてある。また、東側には小郭が いくつかあり、防御をしている。
【右上】城域北側の堀  外側には土塁を築いて城域の北側一帯を取り巻いている。地形上高低差があり、 主郭方面に下っている。

【左上】城域南側の堀  二の郭下部の所。すぐ外側に道が通っており、三の郭下部の堀付近は 埋められてしまっているようだ。
【中上】城域南側の堀  主郭下部の所。外側の土塁などなかなか良い状態で残っている。
【右上】南側の眺め  飯田方面になるが天竜川の段丘がよく見える。


【左】馬出口
三の郭の北西角から出入り口が設けられており、ここから城下町へと繋がっていたようで ある。
が、すぐ南側に丸馬出があるので、当時、この虎口があったとすると少し疑問だが・・・
この部分は攻城軍が馬出に向かう側面を側射する為のものとの事。
(『戦国の堅城』学習研究社刊より)



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