小坂城

おさかじょう

《別名》 桜城




諏訪氏の支族である小坂氏は13世紀初頭には小坂郷を領し、この地に居住していたと思われる。 小坂城の本格的築城は15世紀中葉、諏訪氏が惣領家と大祝家に分かれた頃の事と考えられ、 その後、諏訪氏の内訌の時(干沢城参照)に 小坂氏は惣領家に味方し勝利した。
武田信玄が諏訪を占領し、 高遠頼継が挙兵した際には武田方に味方し、勢力を温存したが 天文17年(1548)2月、上田原の戦い で信玄が敗れると、7月には小坂氏、有賀氏ら諏訪西方衆 が小笠原氏に同調して挙兵した。しかし、 この塩尻峠の戦いの前哨戦で 信玄に惨敗し、小坂氏、有賀氏の主流は滅亡し、城も破却された。

【左】南東側、小坂鎮守神社より  城域の主要部は中央道の建設によりほとんど消滅した。城域の西端と 東端部が中央道の両側に僅かに残っている。主郭部は中央道の真上だった。
<場所>岡谷市湊
<行き方>県道16号より 小坂観音院方面に入り、小坂鎮守の北側から 中央道をくぐり抜け(トンネル「諏訪23」)右側
<駐車場>小坂鎮守 2台
<撮影日>2006年2月
<参考文献>『日本城郭大系』8


【左上】城域南側より  麓の道には散策コースの新しい解説板が立っており、小坂城の由来が書かれている。
麓付近の階段状の削平地は後世のものと思われる。
【右上】階段状の削平地  中央道の西側の高地を目指して登ると、削平地があるが、この付近も 植林の跡と思われる。

【左上】中央道西側の最高所  ここより中央道側に主郭部があった。周囲は土塁で囲まれ、 その東側に虎口や建物跡が発掘されている。主要な郭は一つだけだったようだが、土塁に沿って礎石が 並び、建物があったようである。
【右上】中央道東側  小坂集落を一望できる。「三山様」が祀られており、江戸後期に多くの石碑が建立された。 〔現地解説板〕


〜感想〜
中央道の建設によって城が消滅してしまったが、その際、発掘調査が行われて全容がわかったのは何とも 皮肉である。調査以前はごく簡単な烽火台と思われていたようだ。
現在周囲に確認できる階段状の削平地は後世のものと思われ、遺構は見ることができない。
小坂城は諏訪湖の西側、 花岡城有賀城の中間に位置し、 小坂集落は平安期まで遡る歴史を持っており、 諏訪氏にとって主要な城の一つであったと思われる。


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