桜城

さくらじょう




桜城は下社大祝である金刺氏の本城と考えられている。
下社秋宮に隣接する霞ヶ城が 鎌倉時代初期に造られ、その後要害の地を求めて鎌倉時代末期から室町時代初期の頃に築城された と思われる。
上代から下社の大祝として勢力を持っていた金刺氏も、永正15年(1518)金刺昌春が 上社の諏訪頼満に敗れ萩倉の要害に自落し、諏訪から追放され 桜城も廃城となった。昌春は甲斐の武田信虎を頼って行き、 下社再興を画策したが願いは叶えられず、 享禄4年(1531)の飯富兵部等の信虎への反乱時に戦死したようである。
<場所>諏訪郡下諏訪町湯田
<行き方>国道142号諏訪大社下社秋宮より徒歩
来迎寺手前を北東へ 公民館から畑の方へと登る
<駐車場>下社秋宮駐車場 20台
<撮影日>2004年5月
<参考文献>『日本城郭大系』8

【上】下社裏より桜城  桜城は北側は湯沢の谷、南側は三精寺沢の谷に挟まれた、丘陵の末端部 に位置する。
秋宮より「鎌倉街道ロマンの道」の案内板に従って行く。「一念坂」方面 へ。下社から徒歩で主郭まで約20分。

【左上】大手道途中からの眺め  城域南面は段々畑が巡っており、 どこまでが当時の遺構かはハッキリしないが、そのおかげで眺めは良い。左側の森が 下社秋宮
【中上】岡谷方面  下諏訪の町から岡谷方面、諏訪湖の対岸まで一望。下社大祝の居城だけある。
【右上】主郭  「ロマンの道」が大手道で、畑から林の中に入って帯郭、二の郭の脇をぬけると 主郭に出る。楕円形の南北30m、東西50m程。

【左上】主郭からの眺め  南方面が一部樹木が無い為見通せる。下社が下方に見られる。
すぐ下は帯郭が続いているハズだが、藪でまったく確認できない。
【中上・右上】主郭背後の堀切  背後には4条の堀切、3つの小郭がある。 最後の堀切は自然地形を利用したものでその後ろは、背後の尾根へ高度を上げていく。 この先北方約1.5qの所に詰城といわれる山吹城がある。

【左上】水の手  主郭背後の堀切から西側へ30m程降りたところに水の手があり、比較的大きい 郭の中に土塁で囲まれている。こちら側は湯沢の谷で水の手よりも下側は急な斜面となっており、 防御施設は無いようである。
【右上】水の手より堀切上部  主郭背後の3条目の堀切で、水の手郭まで続いている。

【左上】主郭西側下より湯沢の谷方面  二の郭との間にある腰郭が見られる。
【中上】二の郭の土塁  二の郭は藪になってしまっているが、北西側下に竪堀が2条通っており、 特に北側の竪堀は二の郭を横断して反対側(大手道側)まで通り、堀切となっていた形跡が見受けられる。 その内側にこの土塁が高さ2m、長さ10m程に渡って残っている。
【右上】二の郭西側下の竪堀  城域北西先端部にある竪堀。かなり明確に 残っており、浸食による影響もあるかも。大手道からだと藪化している二の郭を横断しなくては ならないが、少し下の「駒王坂(木曽義仲の幼名は駒王丸、ゆかりの城です。)」の案内板に従って帯郭部を北西方面に回り込むと、手軽に 見える。


【左】城域南側下より  下部は段々畑。

桜城は二の郭付近の防御施設と水の手郭が見どころなのだが、残念ながら今の季節(5月)は 藪がひどくなかなか状況がつかみにくい。

また、ここは木曽冠者源義仲(幼名 駒王丸)ゆかりの城でもある。
二歳の時、父義賢は戦死した。 駒王丸も命を狙われたが、二歳の幼児を殺すのはしのびないと駒王丸の乳母の夫である中原兼遠に 預けられた。兼遠は諏訪大社下社の神官でもあり木曽出身であった。 母小枝とともに下社の地にかくまわれたが、この地も危険と木曽へ移された。
幼い日の義仲はこの付近を駆け回って育ったのであろう。

〜金刺盛澄〜

鎌倉時代、流鏑馬の名手であり下社大祝であった。
下の銅像は下社秋宮脇の「山王閣」駐車場にある。ここは霞ヶ城の城域である。

金刺盛澄(かなさしもりずみ)(または諏訪盛澄)は、諏訪明神下社の大祝(おおほうり 神官であり ご神体の無い諏訪社において生き神でもある)で弓馬の達人だった。
諏訪大明神画詞(すわだいみょうじんえことば)によれば、木曽義仲を婿にとり「女子一人出生」 とあり、義仲の義父ということになっている。
義仲の平家討伐の軍に加わり、弟、手塚太郎光盛とともに北陸路を攻め上ったが、諏訪明神御射山社 の例大祭のために途中帰国した。
義仲討死の後、盛澄は鎌倉へ召還されたが、京都城南寺の流鏑馬に参加していたため遅参、 頼朝の怒りを買い処刑されることになった。その命を受けた梶原景時は「世に比類のない弓馬の 達人、盛澄を失うことは惜しい」と、その計らいで処刑前盛澄の流鏑馬を頼朝が合覧することになった。
頼朝の指図による鎌倉一のあばれ馬を見事乗りこなし、小さな土器一つもはずすことはなかった。 その技に頼朝は「とても人間技とは思えぬ。神の加護があってこそ。」と許され諏訪に帰ることが できた。盛澄は後に鎌倉の御家人となり、頼朝護身の役を勤めた。 〜現地案内板より〜



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