|
||||||||||||||||||||
![]() 塩島城に直接関係する史料はない。 宝徳3年(1451)10月5日、信濃守護小笠原持長は諏訪社下社大祝に対して安曇郡の内「千国庄内塩嶋村」を神領として安堵している (諏訪郡下諏訪町「諏訪大社下社文書」〈『信濃史料』巻8 282頁〉)。 当時、塩島は千国荘に属しており、諏訪社下社領だったことが確認できる。 【左】北方からみた塩島城 小高い丘が塩島城。写真左側には姫川が流れている。 『塩島城縄張図』地誌関係の諸本を確認すると… ○「信府統記」には記載が無い。 ○『長野縣町村誌』北城村の項に「塩島但馬守城跡」として 「東西六十間(約108m)・南北七十間(約126m)、本村寅の方に有りと雖も、区域不分。方今酩々持地になり、栗、杉木小立或は畑に成」と書かれている。 ○『北安曇郡志』(大正12年〈1923〉刊行)では、「塩島城」として「水利あり、数段に分る、付近に馬場と称する地あり、 後の仁科氏の臣塩島但馬守勝雄の居城なり、弘治中武田氏の郡中を徇ふるに当り勝雄害に遇ふ、其子弥兵衛祐輝山県昌景の襲ふ所となり出奔の後、城焼夷せらる」 と詳細に記しているが、典拠は明らかではない。伝承を採取したものか。 ○『北安曇郡郷土誌稿』7 口碑伝説篇3(昭和12年〈1937〉刊行)という現地の伝承を集めた本には、「塩島城の話」が掲載されている。 その内容は、弘治2年(1556)神城村(現白馬村)飯田に在陣中の山県昌景が塩島勝雄を呼び出した。勝雄は二心のないことを申し述べたが、 武田方の間者が塩島城の様子を探ったところ、兵糧を城内に運び込んでいるのを見届け昌景に報告した。 昌景は歓待の態度を装い、勝雄を入浴させたところでやりぶすまの惨殺を行なった。 勝雄の弟祐輝は越後に逃れて上杉謙信に拠り、その弟昌賢は幼かったので乳母と2人の家来に伴われて東の山中に逃れ、塩島氏の領地川中島方面に 身をひそめた。後になって信玄が塩島氏のさしたる反抗心のなかった事を知り、昌賢に塩島の旧領を安堵し、塩島家を復興させたという (塩島勘解由〈話者〉)。 ○『大系』では「塩島城」の項で「仁科氏の臣塩島但馬守勝雄の居城。弘治2年、武田氏の将山県昌景により落城。数段の郭、「馬場」の地名が残る」 としており、ほぼ『北安曇郡志』の内容を記載する。 ○白馬村誌『白馬の歩み』の「塩島山城跡」項において、篠ア健一郎氏は「山麓の集落内に元屋敷、前田などの地名があり、中世の遺物の出土もみられることから、そのあたりが塩島氏の居館跡であろう」 としている。また、塩島氏については「古くからの四ヶ庄盆地の北部地域の開拓農民的な存在」と推測している。 ―断層変位地形調査からみえた塩島城― 2014年11月22日に発生した神城断層地震によって白馬村周辺は大変な被害に見舞われた。 その後、白馬村内において亀裂などの断層変位地形の調査が行なわれ、史跡と断層地形が深く関係していることが確認された。 その報告書がWEB上で公開されている (「長野県白馬村における神城断層の地形を利用した歴史遺構」〈PDF 17.7MB〉)。 私の専門外の報告書なので完全に理解できたわけではないが、塩島城関係でわかったことをまとめると… @塩島城山東斜面は浸食地形であるが、西側の斜面は神城断層が作った変位地形である。 A空堀とされていた溝状の地形は、バックスラストによる変状か、それに手を加えて作られた空堀であったと考えられる。 B塩島城山は、断層運動によって形成された断層地形を巧みに利用したものであった。 以上であるが、注目すべき点は空堀と考えられていたものが、断層の活動によって形成されたものだったことである。 報告書では『白馬の歩み』に掲載されている三島正之氏の縄張図を参照しており、断層の活動によってできた溝状地形に「手を加えて作られた空堀」と表現しているが、 それは同書の歴史的考察と整合性をとるためであろう。 後述するが三島氏本人も「空堀」については、防御のために普請したものなのか疑問を呈している。 したがって、現在台地上に確認できる溝状地形を「空堀」と表現してよいのか、再考する必要があろう。 余談だが、この報告書には三日市場城の崩落状況の調査も載っており、「城山を取り巻くような亀裂が生じ、それぞれ滑落したような形態になっているが、開口した亀裂も多い」と している。しかし、これは「断層運動による直接的な変位地形」ではなく「盛土が地震動によって緩み崩壊したもの」とのことである。 ―立地― 白馬村の盆地(四ヶ庄盆地または四ヶ庄平といわれる)北部、姫川と松川の合流地点にある独立した台地上が城域とされている。 この台地は南北約400m×東西約200mで、川に面した東・南は約50mの断崖となっている。 千国道(塩の道)は現在の松川橋から西寄りに北上しているため、当城から西方へ遠ざかっている。 しかし、千国道から東の野平・青鬼集落へ行く道が城下を通り、さらに川中島方面へ抜けることができる。 また、当時どれほど発達していたか不明だが姫川の舟運にも関与できる地である。 ―アクセスルート―
城域には何カ所か入口があるようだが、一番わかりやすいのは北西部にある八幡社への参道口。塩島城内の案内板が立っている。 【右上】八幡社参道 入口から八幡社まで約20mの高低差がある。八幡社から台地上を南方へ進むと10分弱で主郭部へ到着。 ―現況―
左側(北側)がやや高くなっている。 【右上】溝状地形A A 台地上を東西に分断するようにはしっているが西半分は明確ではない。
遊歩道が台地上の縁を一周している。南へ進んでいくと一段高くなる。 【右上】日光寺跡 C 現地案内板によると、山県昌景が塩島城を攻略した際に焼き払われたと伝えられているという。 また、村内の切久保諏訪神社には、至徳3年(1386)「日光鰐口」と刻印された円型鉄製の鰐口が保存されており、 明治期には本堂の土台と思われる材が掘りだされたという。 『白馬の歩み』では、鰐口の銘を「月光寺鰐口」と読んでおり、村指定文化財(村宝)としても「月光寺鰐口」として登録されている。 鰐口は切久保諏訪神社に所蔵されていることから、月光寺は諏訪神社の別当寺であった可能性が高い。 所在地は特定されていないが、ここに存在した可能性もあろう。
Bから西へ移動した場所だが、比高約10mの急斜面が続いている。 【右上】溝状地形B E こちらはAに比べれば明確な「空堀」だが、台地上を断ち切っているわけではなく、防御としての普請の意図がみえない。
樹木がなければ白馬村の盆地(四ヶ庄平)が一望できそうである。 【右上】城域南側から西方の眺め G 写真奥の切岸上が郭1(縄張図参照)。郭1が台地上の最高所であることから主郭部と考えられる。
城域最高所。南西部分は傾斜がついている。 【右上】南西端の溝状地形C I この部分も断層の活動によってできた地形とのことだが、西側に延びるやや低い台地からの侵入を防ぐための「空堀」として手が加えられ、機能していた可能性がある。
溝状地形Cを北へ進むと1段下がった削平地に出る。西側に延びるやや低い台地はここから出入りできる。 【右上】塩島集落東側の耕作地 K 集落の背後(台地の直下)は一段高くなっており、現在は耕作地となっている。塩島氏の居館があった場所かもしれない。 ―感想― 三島正之・宮坂武男両氏は、台地上全体を城域とみなしているようである。しかし、 三島氏は「大幅に人工が加えられた形跡はなく、遮断線も甘いし、虎口等の築城思想をうかがい知る遺構も存在しない」として、 「空堀」についても「不可解である」と述べている。 一部耕地化による遺構の破壊もあるだろうが… 台地上をすべて城域とすると、塩島氏の居城としてはあまりに広大すぎるし、この規模にして「信府統記」に記載がないことも気になる。 小谷村では防御遺構のほとんど存在しない城が多くみられるが、それにしても広大な台地上をすべて城域とみなすのは難しい。 たとえ大名権力が関わっていたとしても、上述した三島氏の「不可解」な疑問が残る。 やはり、『白馬の歩み』で篠ア氏が指摘するように、塩島氏は台地西側山麓の集落内、もしくは集落東側の一段高い耕作地に居館を構えていた可能性が高い。 そうであるならば、台地上には寺院関連の施設等が存在し、南西部の最高所の付近のみが詰城として機能していたのではなかろうか。 『長野縣町村誌』に記されている城域の広さは、同様の想定をしているためと思われる。 断層変位地形調査の報告書では、溝状遺構A〜Cは断層の活動によって形成されたものとしている。 上記の城域を想定すると、やはり少なくともA・Bは、防御を目的として普請された人工のものではないと思われる。 Cは前述した通り西側のやや低い台地からの侵入を防ぐため、人の手が加えられたと考えられ、Dは普請された可能性が高い。 したがって詰城として機能した部分を具体的に示すと郭1を中心として、郭2・3がそれにプラスできるかもしれない。 塩島城に関する伝承は、現在も集落に住んでおられる塩島氏が代々伝えてきた由緒であろう。 真偽のほどは定かではないが、この由緒があったからこそ塩島城の存在が現在まで伝えられてきたのである。 城館遺構の破壊・消滅が進む昨今、伝承・民話や家の由緒書など「城の由緒」が保存に結びついていることは重要なことかもしれない。
| ||||||||||||||||||||
|