志賀城

しがじょう



志賀城は佐久平から東へ志賀川の谷を入っていった所にあり、志賀峠越えで上野の西牧の谷へと至る。 南の内山の谷を押さえる内山城と共に上野国へと通じる道を押さえている要衝の地にある。
志賀城が記録に現れるのは戦国時代に入ってからである。信玄の佐久侵攻によって佐久の城の大部分は天文12〜13年(1543〜44)頃までには落ち、 天文15年には内山城も落ちた。残るは志賀城のみとなり信玄自ら出馬したが、落とすのに17日前後も要した。 城は笠原新三郎清繁及び応援に来た上野の菅原城主高田憲頼父子がよく守り武田軍は攻めあぐんだ。 別の道から入った上野の援軍と武田軍の板垣信方らが小田井原で合戦し、武田軍が大勝利を収めた。 その首を志賀城下に並べ、城兵の志気を殺ぎ、落城させたという逸話がある。 戦後処理も過酷で男は金山送り、女子供も売られていったという。
内山城、志賀城がこのように頑強な抵抗をしたのは上野勢の支援があった為で、背後には村上氏、上杉氏が あったであろう。 城下の志賀郷の東には笠原新三郎の首塚と呼ばれるものが残っている。


<場所>佐久市志賀
<行き方>佐久市街より国道141号相生町信号を東へ
約5q先雲興禅寺の看板を左折 寺の背後の山
<駐車場>雲興寺の駐車場 8台
<撮影日>2003年11月
<参考文献>『日本城郭大系』8


【左】雲興禅寺と志賀城


【左上】雲興寺の駐車場より右へ周り、寺の背後の墓地右手より道があり、登って行くと正面に岩場が 現れる。
【右上】岩場を西へ迂回するように登って行くと、寺から約15分弱で尾根に出る。そこが二の郭下の 腰郭部分。右手(東方面)に行くと主郭へ、左手(西方面)へ行くと三の郭に出る。

【左上】二の郭へと向かう堀切  尾根を東へと向かうとすぐこの堀切が現れる。この先入山禁止の看板、 テープが貼ってある。松茸などの利権がらみであろう、秋には誤解を招かないように入らないほうがいいかも。
【右上】主郭下の腰郭部分の虎口石垣?  ここの石垣は笠原氏が居た当時の物では無いと思われる。 主郭の部分に残る石の積み方とは異なり、しかも上の段部分と下の段部分の積み方が異なっている。
戦国時代末期の北条、徳川時代の物か、もしくはそれ以降に祠を祀った等、他の理由による後の時代のものか。
情報を持っている方いらしたら是非お教えください。

【左上】主郭西側  祠がありその付近は矢竹が生い茂っている。
【右上】主郭東側  東側が搦め手にあたり、土塁が築かれその後ろは堀切になっている。

【左上】主郭下北東側石積み  【中上】主郭下西側石積み  【左上】主郭下南西側石積み
南西側の石積みが一番広く残っている。積み方は統一されている。主郭下の石積みが志賀城の中で一番古いものであろう。 本来は主郭の周りを取り巻いていたと思われる。

【左上】主郭のさらに東の尾根上の堀切  志賀城全体が細長い尾根上にあり、北、南側は谷になっており、 断崖である。 これは南側の断崖。
【右上】志賀城の東端  自然の地形を利用した堀切となっており、尾根が断ち切られている。 岩場で両サイドは崖状になっており、上幅10m、深さ10m程。


南側の眺め  志賀川の谷。下の集落が志賀郷。かつては城下町、宿場町であったろう。古い街並み が残る。
正面の山が五本松城でその先の内山城と志賀城の間で連絡を取る役割を持っていた。

【左上】三の郭東側堀切  下から登って来た道の所まで戻って、反対側の西方面へ行くとここに出る。 三の郭下に石積みのように見えるが、これは自然の石をそのまま利用したものであろう。
【右上】三の郭  尾根上に細長くあり、北、南側は断崖。北側には細い腰郭が見られる。

【左上、中上】三の郭西、南西部分の石積み  かなり大きな石を粗く積んでおり、これは主郭下、主郭下 腰郭部の石積みともまた時代が異なると思われる。しかしこれを積むとなると有る程度の規模の工事が必要であり、 北条時代か徳川時代のものか。
【右上】城域の西側にある堀切  北側に竪堀となって落ちていく。 西側の尾根上は緩やかでこの先いったん登ってその先次第に佐久平方面へと低くなっていく。

【左上、中上】雲興寺からの登り口にある石垣  これは後の時代の耕作地跡であろうか。 様々な石積みを見ることができ興味を持ったが、これに触れた資料は探しても見あたらず、いつ頃のものかは 特定できない。引き続き調査していきたい。
【右上】雲興寺裏より志賀の谷

【左上】笠原新三郎の首塚  伝説ではあるが志賀城に関係した人のものであろう。
【右上】首塚と志賀城  首塚は雲興寺よりさらに東へ300m程行った左側、田の真ん中にある。



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