七五三掛城
  しめかけじょう

小諸市乙



七五三掛城についての詳細は明らかではない。戦国期に小諸大井氏が居城である鍋蓋城 (後の小諸城鍋蓋郭)の防備の為に、 大井光為(光安)が乙女坂に乙女城(後の小諸城二の丸)を築いたが、 それでも十分な備えといえないことから、その南方、佐久方面への交通の要衝をおさえる為に七五三掛城を築いたとされる。〔『小諸市誌』『大系』〕

【左】七五三掛城 南西側より  西から南にかけて30m以上の断崖を見せつけている。北から西にかけては松井川が流れ、 その侵食によって深い谷となっており、東側も深い沢となっている。わずかに北東隅の部分が台地と接している。

郭には「注連掛」「物見廓」「猪之丸」の名が残り、注連掛は四目崕(四面崖)の意味で、堅固な城をあらわすもので あろう。〔『小諸市誌』〕

【左上】松井川による谷  城域は大きく三つの郭部分に分けることができ、各郭部分は巨大な堀によって独立している。北東の 台地に接している郭部分(仮に北東郭)は現在、江戸時代小諸藩主であった牧野氏の墓所があり、西側半分は耕作地になっている。
その北側下を松井川に沿って西奥へ進んで行くと、二つ目の郭(仮に北西郭)があり、その南側に三つ目の郭(仮に南郭)がある。
写真右下が松井川、左上が牧野氏墓地がある北東郭。
【右上】北西郭下  正面の道を登ったところが北西郭部分。現在は耕作地となっている。虎口らしき跡が松井川に面した部分に 確認できるが、侵食によって削られたようで、現在は下りることはできない。写真右側上隅がその付近となる。


【左上】北西郭  東側に土塁が一部確認できる。右側が虎口跡らしき跡。
【中上】南郭へ向かう堀底道  当時はどのように南郭へ通じていたのかは定かではない。現在は北東郭と北西郭との間の 堀から南郭へと続いている。
【右上】南郭  現在は耕作地と荒地になっている。西側は僅かに低くなっており、副郭的な部分かと思われる。

【左上】北西郭と南郭間の堀  右側上が北西郭、左側上が南郭となる。南郭へと上る道が奥に見えるが、ここを登ると西側の副郭 らしき部分にでる。
【右上】南郭西側  段差が写真でも確認できるが、その向こう側は南郭主要部となる。西側は熊笹に覆われていて確認しづらいが、 小規模な堀が主要部と副郭間に通っていたようである。また、南面から東面にかけて約2m下部に帯郭が通っている。


〜感想〜
『小諸市誌』では「鍋蓋城および乙女城より稍々おくれて成立し、小諸大井氏の防備の重要な一環を荷なったものであろう」としている。
小諸城の二の丸、大井氏在城当時の乙女城から直線で500mも離れていない距離にある城で、城域はかなり広い。 そのため最初からこの規模ではなく、大井氏の時代に拡張整備されていったと思われる。 与良城耳取城平原城をはじめとした他の大井氏の城に見られる特徴が七五三掛城にも見られる。 〔与良城・耳取城のページ参照〕
他の城が宅地化、公園化の波に晒されている中で、七五三掛城は耕作地化はされているが、そこで踏みとどまっている貴重な 城である。

松岡氏はどの部分が主郭だったのか検討を試みており、各郭の高低差、堀の大きさ、土塁等の状況から北西郭か、南郭の主要部分ではないかとして、 「群郭」的城郭であっても「防衛上の配慮に裏うちされた、意外なほど求心的な平面構成をもっている」ことを明らかにされている。
大手は北東の台地に接している部分であろう。北西郭には唯一の虎口跡、土塁が確認できる。 問題は南郭だが「注連掛」という名はこの郭を下から見た様子(一番上の写真)と思われ、虎口、土塁などが耕作地化によって 破壊された可能性も考えられる。大手からは最も奥にあり、副郭を通って主要部に入る通路を想定できることから、 南郭主要部が主郭だった可能性があるのではないだろうか。


行き方
県道142号古城信号を東へ50m行った所を右折。
約300m直進し、松井川を渡ると墓地入口。(左写真)
松井川に沿って道があるので、そこを進むと北西郭、南郭へ
行ける。

墓地の中には牧野氏霊廟があり、巨大な石塔を多く見ることが
できます。
駐車場墓地前 3台
撮影日2006年8月
更新日2006年9月19日
参考文献 『日本城郭大系』8
小諸市誌編纂委員会編『小諸市誌』歴史篇(二) 小諸市教育委員会 1984年
松岡進「七五三掛城と与良城」『中世城郭研究』第3号 中世城郭研究会 1989年