塩崎城
しおざきじょう

《別名》 五万長者城・白助城 長野市篠ノ井塩崎



塩崎城は古くは小笠原氏の一族、赤沢氏の要害だったと伝えられている。
応永7年(1400)年の大塔合戦の際、守護小笠原長秀が150騎の将士と共に逃げ込んだ城として史料上に登場する。 長秀の没落後、この地は一時期村上氏の支配下となり、小笠原政康が守護になると両氏の間で戦いが起こった。
その後、小笠原氏の惣領職争いの結果、赤沢氏は勢力を失い、配下の地侍桑原氏にその地位を奪われた。桑原氏は領地を 手にすると、塩崎と姓を改めた。
武田氏が進攻してくると屋代氏と組んで村上氏から武田氏に服属する。 永禄7年(1564)に川中島に進出した上杉謙信に対して、武田氏は「晴信塩崎迄出張候」〔『歴代古案』『信濃史料』〕 と塩崎に布陣しており、武田氏の軍事拠点として重要な位置を占めていたと思われる。
【上】塩崎城 東側より  長谷寺の背後に位置する。塩崎城の前方(東側)には千曲川が南北に流れ、その対岸にある 屋代城と共に 善光寺平への関門となっている。(赤沢城から東側の眺め)
また北方には善光寺平と犀川流域を結ぶ鳥坂峠があり交通の要衝である。

『塩崎城要図』



【左上】赤沢城方面  長谷寺から塩崎城へ登る途中に、赤沢城が眼下に見える。
【中上】塩崎城 城域東端部  奥に虎口状の遺構が確認できる。写真左手には階段状に郭が主郭へ向けて普請されている。 虎口の先は急斜面を下って、そのまま尾根上の道を長谷寺北側にある墓地まで下る。おそらくこの道が大手道であろう。
【右上】主郭西側の郭  この郭が最高所であり、西側背後には大規模な堀切があるため、ここが主郭とも考えられるが、 東側一段下の郭が周囲の防御施設を考えると主郭の可能性が高い。写真奥に主郭との間にある土塁が見える。


【左上】土塁上より主郭  半分以上藪になっているため把握しづらいが、西側から北側にかけて土塁に囲まれている。北側は 高さは無いが石塁が下方まで続いている。
【中上】北側の石塁  一段下の郭まで約40m以上続いているこの城の特徴的な遺構。
【右上】主郭東側下の石積み  南東側切岸下部に位置する。高さは1.5m程で、折れが一箇所ある。上部は腰郭状に削平されている。

【左上】北側斜面の横堀  主郭北側下の竪堀の間にある。西側の竪堀とは接続されておらず、やや東側に下りながら東側竪堀に 合流している。
【右上】城域西端の連続堀切・竪堀  3条の大堀切が連続し、北・南両斜面にて収斂していく。特に北斜面では120m以上 続いており、途中から沢が底部を流れている。


〜感想〜
背後の3重の堀切から竪堀となって収斂していく遺構は赤沢城東斜面や 若槻山城のものと類似している。
主郭北側に連なる石塁が目に付くがこのような遺構は付近には私の知る限り無いことから、この城独自の特徴的な遺構と思われる。 また、主郭東側下の石積みは主郭への虎口に通じる腰郭を補強したものであろう。
さらに北側斜面には横堀も確認できることから、『長野市誌』でも指摘されているとおり、北方の鳥坂峠がある街道方面への 防御をかなり意識している。
横堀に関しては主郭直下のものは竪堀の間に普請されており、東側の竪堀と合流している。東側のものは土塁が僅かで 帯郭の北辺部分に繋がっていることから、横堀であったかどうかはっきりとはしない。

全体的に若槻山城との類似性が大きく、塩崎城に関しては武田氏の関与が史料上にあることから、竪堀等の規模の大きい普請部分は 武田氏によるものと思われる。しかし、他の地域における武田氏の山城とは縄張りが異なることが、いまひとつ疑問として残る。 武田氏の善光寺平進出期の特徴または地域的な特徴という可能性もあるが・・・


行き方 県道77号より長谷寺方面へ。寺背後の石仏群を抜け、尾根上をそのまま登っていく。約15分。
または、駐車場上から北へ約300m程行くと墓地があり、その北隅から登山道がついている。
駐車場長谷寺または墓地の駐車場借用
撮影日2007年2月
更新日2007年2月23日
参考文献 『日本城郭大系』8
長野市誌編さん委員会編『長野市誌』第12巻 資料編 原始・古代・中世  長野市 1997年
信濃史学会編『信州の山城』信毎書籍出版センター 1993年
参考サイト北緯36度付近の中世城郭」 「近江の城郭