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![]() 曽田城・夜城に直接関係する史料はない。 『小谷村誌』は城郭関連地名一覧の中で、曽田の「城が平」と上手村の「夜城」として、それぞれ掲載している。 夜城の比定地として「曽田城山の西下方、土谷堰添いの平坦地」としているが、遺構が無いためか、場所を明確に示した先行研究はないようである。 【左】うさぎ城から曽田城方面の眺め うさぎ城は姫川対岸、曽田城から南西約3kmの小谷村虫尾集落に位置する。姫川沿いに聳え立つ立山から東へ延びる尾根上にあるのがよくわかる。 背後の雪がついている高い山は金山・天狗原山、さらに奥のてっぺんだけ見える真っ白に雪をかぶった山は火打山。 『大峯峠物見〜曽田城周辺域図』『曽田城縄張図』―立地― 中通の城峯から、さらに東へ土谷川の谷筋を遡ると曽田集落がある。 その背後の小高い山のピークが曽田城。 千国道(塩の道)を監視する大峯峠物見から夜城推定地まで直線で約400m、曽田城まで直線で約600m。 夜城推定地の標高816m。曽田城主郭は907mで大峯峠からの比高146m。 ―夜城―
ピーク上に遺構は見当たらない。その先、東方には曽田城が見える。 【右上】曽田城への道から平倉城の眺め ピークの北側下方を通る土谷堰沿いに曽田城へ向かって進むと、中谷川筋の眺望の良い場所がある。 目立たない所に「中谷渓谷眺望地」と書かれた標柱が立っている。
『小谷村誌』に書かれている「曽田城山の西下方、土谷堰添いの平坦地」だとすると、この辺を指しているのであろう(周辺地域図を参照)。 特に遺構らしいものは見当たらないが、尾根上にしては広く平らな地であり、南側の緩斜面も含めて兵の駐屯地としては適しているかもしれない。 【右上】夜城推定地の南側 南側は緩斜面のため、昔は土谷堰の直下から棚田が広がっていたようだが、現在は荒地と化している。 ―アクセスルート―
曽田城の南側山裾を土谷堰が通っており、右手には棚田の跡が続く。 【右上】曽田城 東側登城口 迷わず行けるのは東側。ちょうど曽田城への緩やかな尾根先が土谷堰に届いた所。道はしっかりついている。 ![]() 急斜面の九十九折りの道を登っていくことになる。 曽田集落からの登城路は未確認だが、棚田が広がる緩斜面が集落下方まで続いているので、難儀はしないであろう。 東側登城口から主郭まで約10分。比高約65m。 ―現況―
削平地は東側登城路沿いの所々で確認できる。耕作地だった形跡も窺えるので、南側斜面の削平地は遺構とは断定し難い。 【右上】主郭 A 稲荷社が祀られている城内で最も高い場所。広さは約20m×10m。郭南側一帯には土塁がめぐらされている。
東側登城口から登って来ると、小規模な堀切の中を通ってこの場所へ入ることになる。 三島正之氏も指摘しているが、東側虎口は後世、稲荷社の参道のために開かれた可能性が高い。 本来の虎口は西側ではなかろうか。 【右上】西側から主郭内部 C 主郭西側下を帯郭が取り巻いていることから、おそらく本来の主郭虎口はこちら側であろう。 ![]() 現在、帯郭は主郭下2段目までしかはっきりと確認できないが、緩斜面が続いていることから当時はさらに帯郭が数段存在したかもしれない。 主郭部から約50m直線で下ると、その先は急斜面の下り坂となっていることから、そこが城域の西端部であろう。 ―感想― 曽田城の城域については、宮坂武男氏の縄張図が私とほぼ同域であるのに対して、三島正行氏のものはさらに北斜面部分・東側尾根部分に広がっている。 今回は私の思い込みでまったく周辺の踏査をしなかったので、三島氏の想定する城域については再踏査を行ないたい。 当然、宮坂・三島両氏の当城に対する見解も相違している。宮坂氏は「土谷の谷に勢力を持っていた人が居たと考えられ、 奥まった位置のために詰め城、あるいは要害城として使われていたもの」「狼煙のつなぎを担っていた」とする。 それに対して三島氏は「未整形の曲輪が多いことから臨時的要素が強いこと、多数の兵員の収容が可能な広い曲輪や塹壕が存在することから純軍事的要素が強い」として、 「広域支配権力が、大規模な軍事行動の一環として築いた」「西下の大峯峠を通る千国街道東ルートの封鎖」が目的だったとする。 三島氏の縄張図がその通りすべて城域だと考えると、かなり大規模な城であり、大名権力が関与していた可能性が高くなる。 大峯峠物見から夜城・曽田城が一体となって機能していたといえるだろう。 この結論は来年の課題である・・・
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