須田城

すだじょう




須田氏は鎌倉時代に、井上城主の井上氏から分家し、
大岩郷(須田氏館、大岩城)を 中心に支配していたが、次第に勢力を伸ばして いき、須田郷をはじめ戦国時代初頭にはこの付近の千曲川東岸の交通網を支配していた。
武田信玄の侵入が始まると須田氏は二家に分裂し、武田氏に属して高井郡に留まった 家系と、上杉氏の家臣団に編入された須田満親の家系とに分かれた。
武田氏滅亡後、上杉景勝が北信濃四郡を支配すると、須田満親は 海津城の城将として戻ってくるが、 上杉氏の会津への国替えに伴い、須田氏がこの地を離れた時に廃城になったと考えられている。
<場所>須坂市臥竜
<行き方>須坂市役所南東方向約1.2q 臥竜公園内
<駐車場>須坂博物館前に公園大駐車場
<撮影日>2004年11月
<参考文献>『日本城郭大系』8

【上】百々川から見た須田城  須田城の南側には百々川が千曲川に向けて東西に流れる。 また、南西約2qには井上氏の本拠である井上城(井上氏館、竹ノ城など)がある。

『須田城付近図』



【左上】竜ヶ池より須田城  竜ヶ池の南側に須田城がある。池の東側に臥竜山という独立峰があり、 そこから南へ池を取り囲むように尾根が延びている。その尾根上に須田城がある。
また、竜ヶ池は昭和6年にできた人造湖で、この部分に屋敷があったといわれる。
【中上】城域西側先端の郭  現在、臥竜山、竜ヶ池などの周辺は臥竜公園となっており、 須坂市動物園の入口脇から須田城への登山道がある。遊歩道が整備されており、約10分で主郭まで 行ける。西側先端部からは樹木が視界を遮るが、須坂市街や千曲川方面が見通せる。
【右上】主郭  頂上部は主郭と西側に堀切を挟んで小さい副郭がある。その周りを帯郭が囲み、 屋敷側の北斜面には数段の郭、竪堀が確認できる。

【左上】主郭と副郭との堀切部分  周りは帯郭になっているので、堀切底部分は帯郭部と接合する。
【右上】帯郭北側  堀切の北側から帯郭にかけて、外側に土塁を設け桝形を形成しているのが特徴だ。

【左上】堀直虎霊廟  主郭から東側へ下ると霊廟がある。須坂藩13代藩主、堀直虎の霊廟。 現在の須坂市街は260年間、須坂藩堀家一万石余の中心地であり、蔵造りの古い街並みが残る。
【中上】須田城北側より竜ヶ池  当時、麓には館があったと思われる。
【右上】竜ヶ池西側部分  池の西側はもともと土塁があったようだが、現在は土手として拡張されて歩道が通る。 総構えの城であったようだ。その外側(写真部分)は低くなって駐車場、畑、民家があり、 町屋があった形跡が残っている。

【左上】昌福寺  須田城、竜ヶ池の西側にあり、昔日の面影はないが、この付近一帯も館跡で あったと推定されている。
【中上】町屋跡か  小山地区の通りに面し、現在でも幅15m前後の間隔で地割りされた 形跡が残り奥行きが深い短冊状となっている。ここに市神も祀られている。 「城下町」の入口となる「桝形」も大正時代まで残存していたという。
【右上】須田城より井上城方面  天気が悪く霞んでしまっているが、写真中央手前の尾根上に 竹ノ城、右奥の尾根上に大城、小城がある。
戦国時代初期には須田氏が井上郷も支配下に入れ、この付近一帯を領地とした。須田城は大岩城の 支城として始まり、この全盛期に拡大され中心地域となっていったのだろう。



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