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![]() 須々貴城はここより西へ約1.5q西方に本拠のある小泉氏の支城といわれている。 天文10年(1541)、村上、武田、諏訪三者連合軍の小県攻め以後、小県に勢力範囲を 広げた村上氏が須々貴城を手中に収めたと考えられている。 天文17年の上田原の戦いでは、 この城の麓に村上軍が陣を構え、対する武田軍は約3.5q南東の 倉升山に陣を構えて対峙した。 天文22年(1553)6月、村上氏は高梨氏と共に越後の上杉謙信を頼って落ちて行き、 8月には塩田城が自落、村上氏幕下であった小泉氏は武田氏に降りた。 【上】須々貴城 東側(上田原・板垣信方の墓)より 浦野川が北上し、城の前面を堀のように廻り、北側で千曲川と合流する。 背後の高い山には小泉氏の詰城といわれる小泉城(上の城)がある。左側の↓が主郭、右側の↓が 須々貴神社があるピーク。
【右上】神社から南東方面の眺め 上田原を挟んで武田氏が陣を構えた倉升地区が見える。 ![]() ![]() ![]() 【左上】尾根鞍部の郭 石積み 時代は不明だが郭の西側縁下に石積みが確認できる。 【中上】主郭 鞍部から南西の斜面を登りきった所が主郭で、やせ尾根上の狭い郭。ここからさらに南西方面に尾根が続いている。 【右上】堀切と二の郭 主郭から続く尾根に堀切、二の郭、堀切と続く。規模は小さい。その背後に鉄塔が建っているが、 背後に一条堀切があることから、ここにも郭があったと思われる。 〜感想〜 ここからは和合城をはじめ、虚空蔵山、 太郎山城砦群が見渡せ、上田市街から塩田平まで一望できる位置にある。 小県と埴科方面の結節点でもあり、千曲川左岸ではまずここが一番の要衝の地であろう。 鞍部の広い削平地の部分に関して、『室町・戦国時代の争乱』では小泉氏の館からは 遠い位置にあるので、ここに見張り役が小屋がけしたのではないかと推論している。 緊張状態が続いた村上氏支配の時代までは重視された城であったと思われる。
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