田口城

たぐちじょう




田口城は田口氏によって室町時代末期に築かれたと思われる。
天文年間(1532〜55)に武田氏の佐久侵攻によって田口城も落ちた。同17年、 上田原の戦い で武田氏が撤退した混乱に乗じて、田口長能は田口城の回復をはかったが成功せず、田口氏は滅亡 した。
天正10年(1582)武田氏滅亡直後、阿江木氏の流れを汲む依田能登守が入っていたが、 依田信蕃の攻撃を受けて落城し、徳川氏のものとなった。

【左】蕃松院からの田口城  蕃松院は依田信蕃の追福のために子である松平康国が建てた。
<場所>佐久市田口
<行き方>国道141号城山信号、城下信号東へ、県道93号を東進。 三分信号左折県道120号に入る。
約1.2q先林道清川線右折。林道を約2qで本丸
<駐車場>3台
<撮影日>2004年3月
<参考文献>『日本城郭大系』8

【左上】林道脇に見える段郭  林道を登って来て尾根上に出ると、両側に段郭が確認でき、 規模が大きい城だという事が判る。
【右上】本丸の切岸  林道は城の北側から登ってきて本丸の東側に回り込んで終点となる。 この写真は北西側から見たもの。林道からの比高は5m程。

【左上】本丸東側下  林道が右に巻いてこの先終点となる。右側が本丸で東側には石積みが確認できた。
【中上】林道終点部  本丸の東側下になり、馬場跡といわれる。現在城山自然研究園という小屋が 建っており、周りは人の手が入って遺構が破壊されているようである。
【右上】本丸  小屋の裏手を登った所。東西100m南北70m程あり大規模なものだ。

【左上】本丸より東側下の帯郭  石積みの跡が確認でき、2m程下に帯郭が本丸の周りを一周している。
【右上】本丸東側下の石積み  この付近が一番良い状態で残っている。城の規模の割りには石積みは 少なく雑な積み方だ。

【左上】本丸南西側の段郭  本丸南面は段郭が2段あり、断崖となっており、西側尾根上に 本丸以上に大きな郭群が連なる。
【右上】西の丸  本丸の西約200mに西の丸と呼ばれる郭がある。この付近までくると かなり樹木が生い茂り、夏場は入れないかもしれない。ここよりさらに西側は次第に尾根が狭まり、 佐久平へと落ち込んでいく。


【左】田口城南下にある龍岡城五稜郭 
ここからは五稜郭の形がよくわかるいい見晴台だ。

【左上】北の丸  本丸の北側50m程の所、城域の北面にある郭。ここから西側に段郭が広がるが 桑畑として使用されていたとのこと。現在は松林と畑がある。だいぶ人の手が入ったようだが、 郭をそのまま利用したのであろう。
【右上】北側の眺め  佐久平が一望できる。平賀城がすぐ北にあるのだが、 樹木が生い茂っていて 確認できなかった。

【左上】本丸東側の堀切  小屋の前の広場(林道終点部)のすぐ先にある。
【右上】同堀切の反対側からの眺め  こちら側は小さな郭が一つあり、その先に2条の堀切が 確認できる。

【左上・右上】2条の東側堀切  小さな郭東側が左上の堀切で、さらにその先30m程の 所に右上の最後の堀切がある。この最後の堀切は上幅が10m弱あり、堀切というよりかなり大規模な 箱堀であった感じがする。


〜アクセスルート〜


【左上】県道120号龍岡城方面から北上すると、直線道路が左に斜めに曲がる所があり、 そこを右折すると林道清川線入り口の黄色い看板がある。
【中上】約500m程行くと右斜めに入る細い道がある。これが林道であるが、ここを入るかどうか 迷うところ。車種によってはキビシイかも。
【右上】約300m進むと右後ろ方向に登って行く道があり、林道恵下久保線の黄色の看板 が立っている。そこからは一本道でどんどん登って行く。ここの道は未舗装だが道幅があり、中上の 写真の分岐が通る事ができれば、あとは最後まで行ける。

他に蕃松院の東側100m程の所に登り口があるらしいが未確認。歩きの人はそこから登った方が 早いかもしれない。


〜蕃松院〜



【左】蕃松院(ばんしょういん)と背後は田口城
依田信蕃は元々武田家臣であったが、武田氏滅亡後徳川方につく。そして佐久地域平定に活躍するが、 岩尾城攻めの時に命を落とす。
信蕃の子松平康国は小諸城主となって佐久郡を領した時、父信蕃追福のためにここに蕃松院を創立 した。
大駐車場有り 


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