高島城
たかしまじょう

《別名》 島崎城、浮城 諏訪市高島




家康関東移封により諏訪頼忠が武州奈良梨(埼玉県)へ移った後、 諏訪に入った豊臣秀吉の武将、日根野高吉(ひねのたかよし)により慶長3年(1598)に完成したのが高島城である。
築城以前、この場所には高島村があったが、村の人たちに漁業権、夫役免除などを与えて小和田の地に 移転させた。
日根野高吉は安土城大阪城の築城に参加して いて、平城の建築技術を持ち込みここに築城した。金子城 の石材は全て高島城へと持ち運ばれたという。
そして関ヶ原の戦いの後、頼忠の子、頼水が旧領に復帰して以降、諏訪氏は改易されることなく、 高島藩二万七千石を明治まで保ち続けた。

【左】復元天守
明治期に城は破却され、石垣と堀だけが残った。 昭和45年に復元天守が完成、鉄筋コンクリート造りで中は資料館になっている。

【左上・右上】本丸内部と復元大手門  現在本丸は公園となっていて当時を偲ばせるものは残ってない。天守の中は資料館 となっており、高島城の歴史がよく分かる。


【左上】内堀東側  水堀が城の北、東側にありこの部分の石垣は規模が大きい。南、西側の石垣は湖水にあらわれていた 為、防御の必要性は低く簡単な石垣である。
【右上】三の丸御殿裏門  ここには当時御川渡御門と呼ばれた門がありここで湖の船に乗ることができた。 現在の門は三の丸御殿(現在の高島一丁目八番地付近)の裏門であったものを昭和63年に所有者から市に寄贈され移築された。


【左上】 天守閣より城の西方面  築城当時は城の下まで湖だったが、湖水位を下げて干拓事業を 行い、次第に湖は離れていった。
【右上】 城の北東方面  諏訪市街になる 武田氏の諏訪統治時代、 諏訪の中心の城であった茶臼山城(高島古城)があった山が見える。(中央上の緑地)


【左上】三の丸跡  この道をまっすぐ行くと本丸北側に出る。
【中上】大手虎口跡  現在の道も鍵型に曲がっている 正面のアパートはその名も「城門」
【右上】大手口より城下町方面(縄手通り)  当時は細い縄手だけで城下町とつながれており、柳並木であった。 両側下は沼地や水田だったが次第に諏訪湖の水位が下がるにつれて乾地になり、18世紀には 現在のケヤキ並木に変わった。
現在国道20号諏訪一丁目信号から高島城へ向かう道が「縄手通り」と言われる。


【左上】高島城柳口御役所跡  現在公園となっている部分で、民政の窓口として城入り口の 柳口近くに御役所を置いた。また、この付近は上級藩士の屋敷が多くあったという。
諏訪一丁目信号から縄手通りに入って、踏切手前を左折してすぐ左側。
【右上】南の丸堀跡か  現在の武道館、城南小学校付近が南の丸跡で、本丸の南東側に位置する。
北側から西側にかけてこの小川が流れており、遺構かどうか不明だが南の丸の境界であったかもしれない。

南の丸は江戸幕府の流人を預かった所で、外界との接触が断たれている場所であった。
徳川家康の六男、松平忠輝お預かりの時につくられたもの。忠輝は家康から勘当されたのだが、 その理由は乱暴な振る舞いとも大久保長安等と組んで天下取りを企てたとか伝えられているが、 忠輝は進歩的な開国思想の持ち主であった。
南の丸での生活は大名の格式をもって迎えられており、それほど惨めなものではなかったであろう。
その後、吉良義周(吉良上野介の嗣子)が三年間おかれ、 彼の墓は諏訪大社上社の神宮寺で あった法華寺にある。


〜感想〜
現在は諏訪市街地のど真ん中に位置している為、築城当時の「浮き城」の面影はまったくない。
現在、遺構は石垣、水堀がある。
だが本丸から大手口までの道は現在でもだいたい元の通りについているので、各曲輪跡の場所は特定しやすい。


行き方県道487号六斗橋を 右折 約1q先市役所の反対側
駐車場市役所の前に20台、反対側天守の西側に15台
撮影日2003年9月、04年5月、06年2月
参考文献『日本城郭大系』8



〜温泉寺〜



高島藩二代藩主諏訪忠恒以降の諏訪氏歴代藩主の墓がある菩提寺。

【左】温泉寺山門
明治3年温泉寺の火災の後、高島城の門であったこの門をここに移築したが、 どこの門であったのかは確かな資料はない。



【左】本堂  文政10年(1827)に高島城内に建てられた能舞台であるが、明治3年の寺の 火災の後、本堂として移築されたもの。舞台の面影が中央付近などに残っている。
【右】梵鐘  天正10年(1582)織田信忠の軍が伊那郡市田村(現高森町市田)の安養寺から 略奪して、諏訪大社上社の神宮寺(法華寺) まで引きずってきたもの。
そに捨てていったものを、温泉寺創立にあったて流用したものといわれる。

【左上・右上】高島藩主廟所  藩主諏訪家の菩提寺はもともと 頼岳寺であったが、 初代藩主頼水は城下に菩提寺を建てようと考えた。二代藩主忠恒は父の志を継いで寛永17年(1640) 城下に温泉寺を建立。現存の廟所は修理、改修が行われているものであろう。廟所内には 忠恒の石塔がある。その手前一帯には石灯籠が並んでいる。
温泉寺本堂の右手から裏の山へ入った所にある。

【左上・右上】廟所両脇に並ぶ代々の石塔  忠恒の廟所の向かって右側に3代忠晴、4代忠虎、 6代忠厚、8代忠恕(ただみち)、向かって左側に5代忠林(ただとき)、7代忠粛(ただかた) の石塔が並んでいる。かなり大きいもので、高さは2.5m程。


場所諏訪市湯の脇1−21
行き方国道20号諏訪一丁目信号東へ入る。 次の十字路を左折し約700m先道なりに右へ。約200m先突き当たり
駐車場山門前など 数箇所に10台以上
撮影日2003年9月、04年5月