立山
たてやま

《別名》 館山 長野県北安曇郡小谷村中土


―史料からみた立山―
立山に直接関係する史料はない。

『北安曇郡志』(大正12年〈1923〉刊行)「舘の山堀割」項には、山頂に幅約3.6mの堀通しの道が南東から北西にかけてあること、武田氏家臣の山県昌景が平倉城を攻めた時、ここから石火矢を放ったという伝承が記されている。

『大系』も「館の掘割」項で前書と同内容のことを書いている。


【左】鳥居城麓からみた立山
塩の道、池原集落から下里瀬集落へ行く途中の眺め。南西側からの立山の姿。


『立山縄張図』


―立地―
姫川右岸に位置し、南には土谷川、北には中谷川が流れており、その間の山塊西端に聳える独立峰。中谷川の対岸には平倉城のある平倉山(823m)が聳えるが、立山(938、8m)から見下ろすかたちとなる。
また、姫川対岸には鳥居城(南ドヤ)下里瀬の城峯、千束城(北ドヤ)、千束城南東尾根砦(中ドヤ)といった城がある。


―アクセスルート―
【左上】立山への林道
国道148号、小谷温泉口信号を東へ入り、県道114号を進む。二つ目のトンネル「白岩隧道」を抜け、約30m先林道を右折。 そのまま頂上まで約3km(道路状況が悪いため時間はかかります。この時は雪もあったため、右折してから山頂まで約20分)。
※この道は1車線ギリギリ、切り返しが必要なカーブ、途中から未舗装のドロドロ道、降雨があれば4WD車限定となります。落石・倒木もあるため、ドライブ気分で行くことは不可です。

【右上】林道途中にある「駒の足跡」
現地案内板 「平倉城主の姫が弘治三年七月武田の軍勢によって落城の悲運に遭った時、城主と共に死ぬことをいさめられた姫は、父の駒に乗り一鞭あて、平倉山より中谷川を飛び越えて、此処に着地したと伝えられ、この岩に残る馬の足跡は其時のものと言われている。これに溜まった水でイボを洗えばイボが落ちると言い伝えられている」


―現況―
【左上】立山山頂の北側の郭 @(←番号は撮影位置〈縄張図参照〉)
北東から南西に段差がついている郭状の削平地が4つある。林道は北東側に接続しており、車がある場所が最北端の郭で撮影場所が北から2つ目の郭。

【右上】同郭間の段差 A
南側が高くなっている。山頂にはアンテナ施設が数か所建てられているため、はたして遺構かどうか…

【左上】南西方面 土塁か B
薮になっている所が土塁状になっている。これは遺構か。

【右上】最南端の郭から北東方面 C
最南端の郭は少し低くなっている。

【左上】南方向の眺め D
黒川城らしき山がみえる。現在、山頂は樹木に覆われているため、見晴らしは悪い。

【右上】林道途中からの平倉城
林道の下部に一箇所だけ見晴らしのよい所があり、平倉城が一望できる絶景。

【左上】宮本城の近くから見た立山・平倉城
南方からの立山の姿。

【右上】平倉山中腹から見た立山
北方からの立山の姿。

【左】来馬城の近くから見た立山・平倉城
北西からの立山の姿。


―感想―
最初に、立山の山頂は樹木により見晴らしは利かない。道路状況も悪く、遺構も不明であることから、おススメはできない。

アンテナ施設建設により、遺構と断定できるものはなかった。『北安曇郡志』に載る堀通しの道も当然みあたらない。
『小谷村誌』では「館山」の項で「平倉城の対岸であり、黒川の山城が望まれる位置にあり、また、土谷の石原上方には「小屋場」、姫川側には「館屋敷」などの地名も残ることなどから考えて、それに関連する物見の置かれた可能性はおおいにあり得る」としている。
宮坂武男氏は「信府統記」にみえる小谷七騎のうち、石原に細野氏がいたことが記されていることから、細野氏に関連するものと推測している。

堀通しの道については、方向から考えると石原集落と白岩集落とを結んでいた道と考えられる。したがって、石原の細野氏が関係していた可能性もある。 武田氏との関連性については、弘治3年(1557)7月5日に平倉城攻めがあったことは確かなので、その際に利用されたことは想定できる。


行き方 国道148号、小谷温泉口信号を東へ入り、県道114号を進む。
二つ目のトンネル「白岩隧道」を抜け、約30m先林道を右折。そのまま頂上まで約3km。
駐車場頂上に駐車スペースあり
撮影日2015年12月7日
更新日2016年1月13日
参考文献 『日本城郭大系』8
『小谷村誌』歴史編(小谷村誌刊行委員会、1993年)
宮坂武男「立山」(同著『信濃の山城と館』第7巻安曇・木曽編 戎光祥出版、2013年)
参考サイト