龍岡城

たつおかじょう




三河奥殿藩の松平氏は本拠三河に四千石、信濃一万二千石に陣屋を置いていた。11代藩主松平乗謨(のりかた) になり、三河の本領が手狭なのと領地の大部分が佐久郡にあることを理由に信濃へ居館を 移すことを幕府に許可を得て、元治元年(1864)3月着工、慶応3年(1867)竣工、 地字名から龍岡城と称した。藩名も奥殿藩を改め田野口藩とした。
<場所>佐久市田口
<行き方>国道141号城山信号、城下信号東へ、
県道93号を東進 約2q
<駐車場>15台
<撮影日>2004年3月
<参考文献>『日本城郭大系』8


【上】龍岡城縄張り図  函館五稜郭と共に貴重な洋式城郭の一つである。堀は南西、西側二稜堡の 部分が未完成のままとなっており、内部の建物瓦も全部準備しながらも一割にも満たない使用であったという。
崩壊間際の幕府で、老中格、陸軍総裁などの要職にあった乗謨には、もはや築城に目を向ける時間 も資金も無かったのであろう。

【左上】大手門跡  現在、城内は田口小学校となっており、取り壊し、払い下げを免れた御台所が 校舎として使用され残され、昭和4年に現在の場所に移築保存されている。
【中上】黒門より北西部の堀  内側の石垣は角を丁寧に摺り合わせて積む「切込みはぎ」 で隙間がほとんどない。
【右上】黒門  黒門は北西部にあり、堀が完成している一方の端である。

【左上】砲台下の石垣  ここは堀が造られていない場所なので、石垣をじっくり見ることができる。 石垣最上部が「はねだし」と言われ、「武者返し」となっている。
【右上】砲台跡  西側稜堡の先端部一カ所のみにあった。当然幕府の許可は下りないであろう。
実際には各稜堡に砲を設置することによって、敵に対して死角を無くして 十字砲火を浴びせる事ができる。外へ打って出る時も各稜堡から援護射撃ができるという合理的な 設計である。

【左上】堀の外側の石垣  野面積みの所が多く、南東側から南側にかけて次第に積み方が粗くなっている。
【中上・右上】南側堀  小学校の裏側にあたる。堀の一方の端となり、当時はここにも「穴門」 と呼ばれる門があったようである。

【左上】御台所  当時は城の東側にあったが、昭和4年に移築保存の為西側隅に移動した。明治には 校舎として使用していた為、見た目は今とはだいぶ違っている。昭和35、36年にわたり、半解体 復元工事が行われた。
【右上】龍岡城より見た田口城  田口城はすぐ北の尾根上に位置しており、 そこから見ると五稜郭の輪郭がよくわかる。

【左上】桝形外側より  【右上】桝形内側より
城域の一番外側の部分にあったもので、五稜郭より北西方向に100m程の所にある。
規模は大きくはないがいい状態で残っている。

最後の藩主松平乗謨は17歳の時には和漢の学問すべてを習得し、その後洋学を学び、特に火砲・ 築城技術を熱心に学んだという。学才識見に優れて、幕府の要職を努めた人である。


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