寺尾城
 てらおじょう

《別名》 車城 長野市松代町東寺尾



寺尾城は寺尾氏の城とされているが、築城時期は不明である。
寺尾氏は戦国期には村上氏に属していたが、清野氏とともにいち早く甲斐の武田氏に通じた。
天文19年(1550)9月、武田信玄の「砥石崩れ」の際、寺尾城は村上氏と高梨氏によって攻撃され、真田幸隆が救援に赴いている。 〔「高白斎記」〕
天正10年(1582)の武田氏滅亡後は、上杉景勝に属し、依然として寺尾城にあったが、 景勝の会津転封に伴ってこの地を去ったため、廃城になったと思われる。

【左】竹山城(象山)より寺尾城、 金井山城方面  尼巌城から 北西へ下る尾根が二又に別れ、一方は金井山城、もう一方には寺尾城 が配される。二又に分かれる部分には北平城があり、これらの城の間を縫うように北国街道松代道が通る。


【左上】愛宕神社より海津城方面  尾根先端部南下の地蔵堂から少し登った所に愛宕神社がある。 写真中央やや右が海津城(松代城) の位置であり、寺尾城は東側で最も近い位置にある。
【右上】寺尾城主郭  尾根上を奥に進んでいくと土塁に囲まれた主郭がある。約16×12mの規模で、 「寺尾殿の墓」と刻まれた石碑が建つ。虎口部分は土塁が切れており、外側に腰郭が付属し堀切で防御する。

【左上】寺尾城より金井山城方面  寺尾城麓から金井山城東側の尾根(鳥打峠)を越えて北国街道が通っていた。現在 金井山城主郭直下を上信越自動車道のトンネルが貫通している。
【右上】川中島八幡原古戦場方面  当時の千曲川の流れは もっと東側(写真手前側)だったが、それを越えた所が武田氏本陣跡とされる場所で、現在史跡公園となっている。


【左上】主郭北東側尾根  主郭背後に郭を挟んで2条の大堀切があり、そこからやや離れたところに最後の堀切がある。 途中の部分のやせ尾根は平坦であるが人工的な手が加えられた跡は薄い。
【中上】北東端の堀切  ここが城域の北東端と思われる。手前側に土塁、堀切の中には土橋が確認できる。
【右上】寺尾城より尼巌城  尾根続きではあるが、かなり迂回しているため、寺尾城から直接全景を見ることができる。


〜感想〜
千曲川沿いの氾濫原に突き出た尾根に位置し、金井山城とは双頭を成す形である。北国街道がこの麓を通っており、上田方面から 地蔵峠を越えて善光寺平へ入る部分を扼する交通の要所である。
金井山城と同様に尾根上に郭を配し、堀切で防御する構造は同じであるが、石積みで造られた金井山城ほど精巧な虎口は無い。 そして、城域全体というか特に主郭が尾根先端部に近いことは、金井山城とは反対である。これはやはり街道の通っている位置が 影響しているのであろうか。
海津城の東側の守りとして重要な位置にあることからも、景勝時代まで使用された可能性は十分にあるが、縄張りから見ると戦国末期 よりもずっと前のもの(16世紀前半〜中頃か)と感じる。


行き方国道403号より松代温泉方面へ。蛭川橋北側の 地蔵堂から愛宕神社経由(神社より先には道が
付いてない為、尾根上を登っていく)で徒歩約15分。
駐車場地蔵堂前に路駐 2台
撮影日2006年12月
更新日2007年1月7日
参考文献 『日本城郭大系』8
長野市誌編さん委員会編『長野市誌』第12巻 資料編 原始・古代・中世  長野市 1997年
参考サイト北緯36度付近の中世城郭