千国城
 ちくにじょう

《別名》 城の峯 長野県北安曇郡小谷村千国


―史料からみた千国地域―
千国城に直接関係する史料はない。

千国の名は「吾妻鏡」文治2年(1186)3月12日条に「六条院千国庄」とあるのが初見である。 当時、千国荘は現在の白馬村・小谷村一帯を荘域としていた。
その後、天正6年(1578)2月に写された長享2年(1488)7月諏訪社下社の「春秋之宮造宮之次第」において、春宮の役所担当として「一 五間拝殿 千国・小谷」と記されており、この頃には千国と小谷が区分けされていたことがわかる。

また、後世(慶長16年〈1611〉)の記録ではあるが、堀金平右衛門が同氏の系譜を記した文書(千国家文書・『信』巻21〈124頁〉)には、「菅原利秀 千国丹波守」が、弘治3年(1557)7月の武田信玄による平倉城攻めの軍功によって千国六ヶ村をもらい、堀金から千国に名字を改めたことが記されている。
同年10月9日付、武田家高札(千国家文書・『戦武』576)には、「武田軍の者、千国谷中における乱妨狼藉を禁止する」ことが記され、この時すでに武田氏が千国を押えていたことがわかる。

天正7年(1579)4月28日付、倉科七郎左衛門尉宛ての仁科盛信判物(丸山相良氏所蔵・『戦武』3121)では、西浜(糸魚川市)計略における働きを賞され、千国の内から馬○(木篇に厥)・東町五貫文を宛行われている。翌天正8年4月20日には武田家朱印状(倉科家文書・『戦武』3329)によって、多少貫高が異なるものの、所領を安堵されている。

天正9年(1581)の「伊勢内宮道者御祓くばり帳」(堀内氏所蔵・『戦武』3644)では、「にしなの分」の中で、「ちくに殿にしなめうし(仁科苗字)源三殿」と記載されており、仁科一族の千国源三という者がいたことがわかる。
したがって武田勝頼期、当地域には倉科の知行地や千国氏の知行地が存在していたことになる。

天正10年(1582)武田氏滅亡後、小谷筋には北から上杉景勝が、南からは小笠原貞慶が侵攻してきた。
同年11月2日付、西方房家・小谷衆大所豊後守宛ての景勝書状2通(景勝公御書16・『上』2593)・(山田氏所蔵・『上』2594)では、「千国之城」を攻略したことを賞している。この「千国之城」は姫川東岸の向いに位置する黒川城もしくは黒川館である可能性が高い。

しかし、その後は小笠原氏の攻勢が強く、天正11年3月3日付、小笠原貞慶黒印状(千国氏所蔵・『小谷』116頁)では「千国十人之奉公衆中」に宛てて、「千国跡職」を宛行っている。千国に10人の地侍集団が存在していたことが確認できる。

『信』…『信濃史料』、『戦武(文書番号)』…『戦国遺文』武田氏編、『上越(文書番号)』…『上越市史』別編上杉氏文書集、『小谷』…『小谷村誌』歴史編

【上】黒川館からみた千国城
「千国城」という名の初見は不明だが、『北安曇郡志』(大正12年〈1923〉刊行)の時点で「千国城」が掲載されている。そこには「後仁科氏の族千国盛信の居城なり子孫丹波守利秀に至り黒川城に移り城廃せり其遺址千国番所となり存せしが明治二年撤廃せらる」と書かれている。
この記述は『大系』にもそのまま引き継がれている。「丹波守利秀」は上記史料にみえるが、同時代史料ではなく、そのほかの部分も後世の史料・伝承によるものであろう。
明治初期の官撰地誌編纂事業による調査記録である『長野縣町村誌』には記載がない。
『小谷村誌』では城地名調査一覧の中で「城峯」とだけあり、稲荷社が祀られていること、南側に郭があることを記す。
おそらく、戦国期には「千国城」という名称は存在しなかったのであろう。

『千国城縄張図』



―立地―
姫川左岸、千国集落の西側背後の舌状台地に位置する。また、約400m北西、背後の一段高い段丘上には立屋の城峯砦がある。姫川対岸には黒川城・黒川館が目視できる。

―アクセスルート―

【左】登城口
舌状台地つけ根部分の峰集落からのアクセスが一番簡単であろうが、駐車スペースがない。そのため、城域東側下を通る道から登城した。東側には段々畑の耕作地があり、その真ん中を通る道を登って行くと約5分で尾根先端部に行くことができる。
写真は耕作地への入口。付近には1台分の駐車スペースが2ヶ所ほどある。

―現況―

【左上】尾根先端部にある郭の切岸 @(←番号は撮影位置〈縄張図参照〉)
耕作地の跡が直下まで迫っており、東側周囲はゆるい斜面が続いている。人を寄せ付けないような急峻な斜面ではない。

【右上】郭内部 A
石祠が二つある。約15m四方の大きさ。

【左上】北西側尾根続き方面 B
郭下の堀切を越えると約100mほど自然地形のやせ尾根が続く。

【右上】舌状台地つけ根部分の堀切か C
耕作地跡のような感じもある。峰集落側には墓地もあり、後世に改変が加えられている可能性が高い。

【左】千国番所(復元)
千国の庄史料館の敷地内にある。

千国番所が置かれたのは、慶長年代(1596〜1614)からといわれている。以来およそ260年の間、明治2年に廃止されるまで、千国街道の人や物の通行を監視し、取締に当たる松本藩の重要な番所としての役割を果たしてきた。とくに、千国番所は松本領に出入りする物資に対する運上金の取り立てが大きな仕事であった。[現地案内板より]

―感想―
前述の通り、縄張からすると「千国城」と称するには名前負けしている感がある…
史料にでてくる「千国之城」は少なくともここではないだろう。
城域が舌状台地先端部の郭部分だけなのか、台地全体に及ぶものなのか現況からは判断しがたい。全体が城域だとすると東側の斜面がゆるく、防御的にはかなりあまい。
史料上、千国には地侍(土豪)層が複数いたこと、倉科・千国氏の知行地があったことが確認でき、戦国期には彼等の小規模な城館が散在していたことが想定できる。千国城もその中のひとつだったのではないか。
もうひとつの可能性として、立屋の城峯砦がすぐ上にあることから、当城は千国道を監視する物見的な役割を担っていたことも想定できる。


行き方 県道433号、小谷小学校南側を西へ入る。約300m先、耕作地部分から登城。約5分。
駐車場耕作地周辺に駐車スペースあり 1台
撮影日2015年12月6日
更新日2015年12月23日
参考文献 『日本城郭大系』8
『小谷村誌』歴史編(小谷村誌刊行委員会、1993年)
宮坂武男「千国城」(同著『信濃の山城と館』第7巻安曇・木曽編 戎光祥出版、2013年)
三島正之「信越国境の防備―長野県小谷村の中世城郭―」(『中世城郭研究』11、1997年)
参考サイト土の城への衝動
らんまる攻城戦記