鳥居城
 とりいじょう

《別名》 南殿・南ドヤ・城が平 長野県北安曇郡小谷村中小谷


―史料からみた鳥居城―
鳥居城に関する史料は残っていない。

【左】平倉山中腹からみた鳥居城
平倉城の南方、姫川の対岸に位置する。城域は直線距離で500m四方に、比高差で230m近くにも及ぶ大規模な山城である。
城域は大きく3つに分かれており、山塊から北東にのびてきた尾根が北と東へ分岐する部分、その先にある北尾根と東尾根の部分にそれぞれ遺構が残っている。

『鳥居城縄張図(主要部)』



―立地―
姫川の左岸に位置し、直線で北西約1.3kmには千束城、その手前に千束城南東尾根砦、北方約2.5kmには平倉城があり、見通すことができる。
また、城の麓には千国道西岸ルート(塩の道)が通っており、北に池原、南に下里瀬の集落、その中間に下里瀬の城峯が千国道を押えるように位置している。


―アクセスルート―

【左上】中土駅から池原集落に向かう登り坂の途中、駐車スペースあり。

【右上】さらに徒歩で登って池原集落に入ると、塩の道を車坂方面へ行く分岐がある。左のやや下っていく道を進む。約300m先までは舗装されており、小さい車なら舗装終わりのスペースに駐車できる。

【左】登城口
送水管に沿って登れば北尾根の遺構部分にでることができる。
私は送水管のすぐ手前(池原集落側)の少し高台にある墓地を抜けて直登した。駐車スペースから登城口まで徒歩約10分。

―現況―

【左上】北尾根部 @(←番号は撮影位置〈縄張図参照〉)
登城口から北尾根部の主要部に出たところから、南方向を撮影。登城口からここまで約1時間。

【右上】郭周囲の土塁 A
西方向を撮影。

【左上】郭内部 B
縄張図には反映されていないが、内部はかなり不整形である。

【右上】北尾根先端部の土塁と堀 C
土塁と堀がセットとなって尾根を横断している。ここから下方には同様な土塁が何重にも普請されており、三島氏の言葉を借りれば「塹壕」が山腹に連なっている感じである。

【左上】北尾根 郭の南西側下部 D
郭の西側下部には南北に土塁があり、横堀状となっている。ただし、高低差が激しく南側が高い。そこから尾根分岐部の遺構へとさらに登っていくこととなるが、この鞍部は堀切とはなっておらず自然地形である。

【右上】尾根分岐部 削平地 E
北方向を撮影。南に向かってやや登り坂となっている。

【左上】郭内部 F
この部分も縄張図には反映されていないが不整形な部分が多く、郭らしい削平地がほとんどない。尾根と並行して堀が2条通っている。

【右上】尾根分岐部 南郭 G
写真Eの部分からだいぶ登ったところにある。郭の南側は堀切かどうか不明だが一段低くなっている。

【左上】城域の最高所か H
写真Gからさらに南側斜面を登るとやせ尾根が続いているが、アンテナ類が建てられているため、遺構かどうか不明。この先、さらに高度をあげていく。

【右上】東尾根部の西端 I
高圧線の鉄塔が建てられている。保守道が整備されたためか、北尾根部背後の鞍部に道が続いている。

【左上】写真Iと同所から南方の眺め J
高圧線の鉄塔とその保守道によって、尾根分岐部から下って来ることができた。遺構の破壊はダメだが、今回は城域がとてつもなく広いため、自分の位置確認に役立った…

【右上】北方の眺め K
こちらも、高圧線鉄塔があるため視界が開けている。立山平倉城がよくみえる素晴らしい眺め。

【左上】東尾根上の郭 L
あまり広くはないが、尾根上に郭が連なる。先端部手前には堀切が3条確認できる。北尾根部・尾根分岐部の不整形な郭・尾根に平行して走る横堀といった不思議な遺構とは異なり、城域でもっとも城らしい遺構だった。

【右上】東尾根部 先端の郭 M
周囲は急な斜面となっており、樹木が無ければ眺めはよさそうな場所である。

【左】平倉山中腹からの眺め
写真Kの逆方向からの撮影となる。立山・鳥居城・平倉城それぞれ指呼の間に位置する。

―感想―
宮坂氏の「鳥居城」縄張図は北尾根部分と思われるが、現況とはかなり異なっているように感じた。
『小谷村誌』では、「館山や平倉城方面を向いた尾根であるため、北側の「千束城」との関連が注目されるが、この山城を構えていたのは、おそらく池原にあった勢力と見てよい」とする。宮坂氏・『小谷村誌』が城域としているのは北尾根部だけのようである。
三島氏は、北尾根・東尾根・尾根分岐部の3地域を城域としている。東尾根は城域とみて問題ない。
尾根分岐部は不整地が多く、自然地形と遺構との判別が難しいが、ここを押えることは必須であろう。
三島氏は鳥居城の特徴として、@郭らしい郭が少ないこと、A尾根を横切る堀切より尾根と平行した横堀が多いこと、B尾根を掘込んだ窪地が存在することを指摘している。さらに、横堀は「塹壕のように兵員を内部に収容する施設だったことを想起させる」として「斜面を削平して曲輪をつくるより、防御線を兼ねた横堀を掘っていった方が短時間で築城工事が完了し、大部隊の移駐も可能になると思われる」と述べている。

この地域は武田・上杉両氏の領国境目、さらに武田氏滅亡後には小笠原・上杉両氏の境目となった地域であるため、大部隊がここに詰めたことは歴史的にも説得性があると思われる。
結論として、『小谷村誌』がいうように池原にあった在地勢力の城ではなく、大名レベルによって普請された城と考えられる(それ以前の在地勢力の城を拡大したという可能性はあるが)。
問題としては、戦国期に同様の縄張を持つ城がほかにもあるのか、すべて城の遺構としてよいのか、といった点があげられる。
なんとも不思議な縄張である…


行き方 中土駅南側から池原集落に向かう道に入り、つづら折りの道を登る。塩の道の案内柱にしたがって下里瀬方面へ。
発電所送水管付近から尾根を直登。約1時間。【地形図・方位磁石必携】
駐車場池原集落に向かう登り坂途中に駐車スペースあり 3台
撮影日2015年12月6日
更新日2015年12月14日
参考文献 『日本城郭大系』8
『小谷村誌』歴史編(小谷村誌刊行委員会、1993年)
宮坂武男「鳥居城」(同著『信濃の山城と館』第7巻安曇・木曽編 戎光祥出版、2013年)
三島正之「信越国境の防備―長野県小谷村の中世城郭―」(『中世城郭研究』11、1997年)
参考サイト