妻籠城つまごじょう![]() 妻籠城の築城時期についてははっきりしたことがわかっていない。 室町中期には築城されていたと考えられている。記録で登場するのは 天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いの時、豊臣方についた木曽義昌が整備し、家臣の山村 良勝に守らせたことである。 その時には徳川方の菅沼定利を中心とした軍に攻められたが、山村良勝が死守した。 その後、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは小笠原氏によって修理され、使われている。 徳川秀忠は小諸から下諏訪を経て9月17日、 妻籠城に陣していた時に関ヶ原の勝報に接した。 【左】妻籠宿からの眺め 妻籠城は木曽川と蘭川の合流地点にある独立した山で妻籠宿の北側に 位置する。見晴らしが良い所で木曽谷で随一の遠望が利く地点といわれている。
![]() ![]() 【左】妻籠城縄張り図 中山道が通っている側だけが緩やかな斜面となっており、数条の堀切で 主郭方面との間を断ち切っている。また、道の反対側斜面には「妻の神土塁」とよばれる土塁があり、城域は かなり広かったようである。 【上】妻籠城入口 ここから主郭まで約10分。ここからの比高はそれほど無く、道も 整備されておりアクセスしやすい。 ただ、その影響か主郭までの道は途中で遺構を破壊している部分もあるのが残念。 ![]() ![]() ![]() 【左上】最初は南方向に迂回しながら二の郭へと向かう。途中に両側が急斜面になっている細尾根上の 道を通っていく。 【中上】堀切跡 細尾根を越えて登ってくると道の脇に堀切らしき遺構が確認できる。 どうやらここの部分は堀切を破壊して整備された遊歩道を通したようだ。確かに主郭へのアクセスは 楽になったであろうが、この程度の破壊はしかたのないことなのか。この堀切の右側上が二の郭になるようだが、 一面藪である。 【右上】主郭下の堀切 土橋がついており(これも整備後のものか?)その両側は堀切と いうより横堀と言った方が適当か。 ![]() ![]() 【左上】主郭 周りには土塁がめぐっており、さらに帯曲輪が周囲を囲んでいる。 円形に近い縄張りが特徴的。虎口は北側と南側の二カ所にある。 【右上】主郭より妻籠宿の眺め 眼下に一望できる。天候が悪かった為遠望ができなかったのが 残念。 ![]() ![]() 【左上】「妻の神土塁」 藪で写真では見えないが電柱の所から奥へと土塁が延びている。 かなり規模は大きく、奥のほうで桝形を形成しているような感じである。ちょうど この地点は峠となっており、ここを南へ下っていくと妻籠宿なので関所のような 役割もあったのであろうか。 【右上】妻籠宿 言わずと知れた観光名所。 |