上田城

うえだじょう




上田城は真田昌幸によって天正11年に築城された平城である。もともと真田氏は現在の 小県郡真田町(真田本城真田氏館)に 本拠を持っていた小豪族であり、昌幸の父である幸隆は一度村上氏によって上野の国へと 追い出された。その後武田信玄の配下に加わり活躍し、上田城周辺の地を与えられた。
昌幸は武田、織田氏が滅亡した後、上杉、北条、徳川という大国の狭間にありながらも勢力を拡大していき、 上田盆地を中心に小県一円、上野国岩櫃城沼田城までを領するに至った。
その頃に上田城は築城されたのであるが、有名になったのは天正13年(1585)と慶長5年(1600) の2度に渡って、徳川の大軍を阻んだ事による。
関ヶ原の戦い以降、昌幸の嫡男で徳川方についた信之が上田城主になるが、元和8年(1622)松代に移封となり、 その後、仙石氏85年間、松平氏166年間と上田城主になる。
現存する隅櫓は寛永3年(1626)からの工事で再建されたものである。


<場所>上田市二の丸
<行き方>国道141号中央二丁目信号を
市役所方面へ 突き当たりが二の丸門前
<駐車場>尼ヶ渕(城の南側下)に30台
<撮影日>2003年10月
<参考文献>『日本城郭大系』8


上田城縄張り図
図の左側が北になる。千曲川の分流である尼ヶ渕が南側を流れ、比高約12m程の断崖の上に本丸が ある。本丸を東、北、西とコの字型に囲むように二の丸があり、その外を水堀が囲み、西には小泉曲輪 とため池(捨て堀)がある。東側には御屋敷、古屋敷があり江戸時代の上田藩主は御屋敷に住んでいた。

左上 本丸  北側半分が一段高くなっている。写真は北側から南側を撮ったもの。奥には真田神社 がある。
中上 本丸をコの字型に囲む土塁  高さは2〜3mあり土塁の上には石垣を築かずに隅櫓が 角に立ち、本丸内に計7棟の二層隅櫓と東西の虎口に2棟の櫓門が建てられていた。しかし、それは 真田氏時代ではなく、仙石忠政の時、寛永3〜5年(1626〜28)の再築城した時の事である。
右上 隅櫓の芯柱の礎石  土塁上に残っているが明治時代以降に動かされ、本来の位置より少しずれている。

左上 本丸を囲む水堀の東北隅  鬼門除けの為に直角ではなく内側に切り欠けをつくっている。 これは真田昌幸の遺構と考えられている。
右上 真田神社内にある真田井戸  この井戸の中に抜け穴があり、北側背後の太郎山の方へ 抜けられたという伝説がある。

左上 本丸東虎口の櫓門と隅櫓  大手口にあたる 南、北櫓は明治時代民間に売却され移築されたが、 昭和19年に市が買い上げて現在の位置に再び移築した。しかし位置は元の所ではない。櫓門は復元。
右上 真田石  真田信之が松代に行く時に、この石を持って行こうとしたが動かなかったという。

左上 本丸西虎口と隅櫓  左半分の石垣が消滅してしまっているが跡は杭で再現されている。
中上 この西櫓はただ一つここに残されていた建築物であり、仙石忠政が建てた当時のまま残っている。
右上 尼ヶ渕から見た西隅櫓  尼ヶ渕は現在公園、駐車場となっており、西櫓から東虎口の隅櫓まで 見渡せる。そして当時は尼ヶ渕の水が洗っていただろう石垣が下部に残っている。

左上 二の丸北側  二の丸には市民会館、博物館、招魂社などが立ち並び、公園化している。北側にある 招魂社裏手には土塁が残る。
中上 二の丸東大手口  ここから桝形の無い本丸虎口までは本来土塁や堀などで防備されていたが、 現在は遺構は無い。
右上 二の丸大手口下の堀  本来は土橋であったが、ここに鉄道!を通した時に石橋に架け替えた。昔はスゴかった・・・ 現在は遊歩道になっているが二の丸外側の堀跡でしっかり確認できるのはこの東側のみ。鉄道のおかげか?

左上 二の丸北虎口  石垣が復元されているが周りが何も無いので異様な感じもする・・・
中上 二の丸西虎口  こちらは全く遺構無し。
右上 西虎口外側の堀跡  虎口の南側の土塁と堀跡は耕作地になっているがしっかり残っている。 北側は通称百間堀といわれる池のような大きな堀であった。現在は野球場と陸上競技場が中にすっぽりと おさまっている。


小泉曲輪の図
二の丸西虎口から堀を渡るとこの曲輪に出る。捨て曲輪といわれ当時はここに敵軍を引き入れて打つという 役目を担っていた。また、上田城が築城される以前に小県郡の土豪小泉氏がここに出城を築いていたという。 現在は体育センターが建っていて、場所が確認できるのみである。

左上 小泉曲輪北側  二の丸西虎口より。道の右側は野球場で堀跡になる。
中上 小泉曲輪東側  二の丸土塁より。道が堀跡にあたり向こう側が高くなっているのがわかる。
右上 小泉曲輪南側  尼ヶ渕から西へ続く崖であるがここまで来るとだいぶ低くなる。

左上 二の丸北側の堀跡  百間堀といわれる二の丸の西から北へエル字型に池のような巨大な堀が あった。現在は北側はこの陸上競技場、西側は野球場がスッポリ入っている。
右上 小泉曲輪北西側にあるため池(捨て堀)跡  現在はグラウンドになっている。

左上 三の丸大手口跡  道路がクランクしているのがわかる。ここには門が初めから無く、 堀の前に木戸があり土橋を渡って桝形があり、その先二の丸門まで大手道が続いていた。
右上 三の丸大手口前の堀跡  現在は道が通っていて遺構は確認できない。

左上 上田藩主居館表門  真田信之の時代に建てられ、それ以降藩主は三の丸内にあたるここに 住んでいた。現在の表門は松平忠済(ただまさ)時代の寛政2年(1790)にその前年焼失した居館 と共に再建されたものである。長野県下最大規模の薬医門。
右上 居館東側に残る堀  表門の前の堀は現在も残っている。


現在の上田城
あまりにも有名な城なのでここであらためて、地図を載せなくてもいいかと思いましたが・・・ 当時の物と現在と見比べながら歩いてみるのがオススメです。
城内だけでなく周辺も含めて半日あればここに取り上げた所は見て回れると思いますので、真田昌幸、信之、幸村の活躍 を思い、その後の仙石、松平時代の遺構などじっくり楽しんでほしい所です。



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