上原城

うえはらじょう




諏訪惣領家の城。城の中腹には居館跡があり上原郷に城下町をつくった。
天文11年(1542年)諏訪氏は武田晴信(信玄)によって滅ぼされ、 以後信玄の諏訪統治、信濃攻略の前線基地となった。
<場所>茅野市ちの
<行き方>国道20号上原頼岳寺信号を
頼岳寺の方へ入り、突き当たりを右折。
すぐ上原城の看板があるので左折。
道なりに登っていくと板垣平を通り、
さらに登ると搦め手口に大きな看板がある。
<駐車場>3台、20m先に大きな駐車場あり
<撮影日>2003年7月
<参考文献>『日本城郭大系』8
茅野市編『茅野市史』中巻 中世・近世
1987年


主郭と搦め手にある「離れ山」を隔てている「大空堀」 上幅30mある。
 
【左上】主郭  【右上】北東面の帯郭



主郭の大きさは南北30m、東西20mほどの小規模な城だが、「離れ山」という出郭、 竪堀、土塁、腰郭などがあり堅固な構えである。

三の郭から諏訪湖方面の眺め
 
板垣平  上原城の大手口。上原城の下部に広がる150m*100m程の平坦地であり、元々諏訪氏の居館があった 場所である。室町時代後期に諏訪惣領家信満がここに居を構え、麓の上原郷に城下町をつくった。 その後、信玄に滅ぼされるまで約70年続いた。 信玄が諏訪の統治を始めると、ここに諏訪郡代(初代 板垣信方)の屋敷が造立された。 現在もここの小字名は「板垣平」である。

 
【左上】屋敷下の石垣  崩壊寸前!の石垣であるが、所々で確認できる。
【右上】板垣平より見た上原の街並み  諏訪氏が城下町として整備した所である。


〜上原城下町遺跡〜



茅野市の区画整理に伴う発掘調査で、現場は板垣平の下に位置している城下町が広がっていた部分。 国道20号とJR中央線との間に挟まれた約800平方メートル。
室町時代から戦国時代にかけての建物跡の柱穴、井戸跡などが見つかった。
諏訪氏から武田氏に支配者が変わったが、町の形を変えた跡は無く、諏訪氏時代の町をそのまま 使用していた可能性もあるとの事。
この遺跡からは江戸時代から昭和30年代まであった「西方堂」の木柱、墓の他、古墳や 平安時代の土器、須恵器なども見つかっている。
(2004年6月)

【左下】「西方堂跡」  この部分が発掘調査の対象になっている。周りは住宅地が広がっており、 区画整理に伴う調査なので、終了後はここも跡形も無くなってしまうのか・・・
【右下】発掘現場より上原城

 



〜頼岳寺〜




頼岳寺は高島藩初代藩主諏訪頼水が寛永8年(1631)に諏訪氏の菩提所として開いた寺である。 本堂裏手には御廟があり、頼水と父頼忠、頼忠夫人が祀られている。
しかし、二代藩主忠恒は城下町の上諏訪に新たに菩提寺として温泉寺を建立したので、二代目以降の 歴代藩主の墓は温泉寺に移った。
境内には他に三代藩主忠晴の二人の子、大祝家、二の丸家、旧藩士の墓がある。
〜現地案内板より〜




諏訪氏頼岳寺御廟所
本堂の裏手にある朱塗りの廟所は三室に分かれていて、左から頼水、頼忠、頼忠夫人の墓となる。 塔婆は頼忠、頼忠夫人が五輪塔と宝篋印塔、頼水が家形の石造一重塔が安置されている。
他に頼忠の父満隣(みつちか)の供養墓碑が干沢城下に 諏訪氏安国寺御廟所として祀られている。満隣は信玄に滅ぼされた諏訪頼重の叔父にあたる。

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