上ノ平城うえのだいらじょう![]() この城は平安時代の末、南信濃源氏の祖源為公(ためとも)の嫡流の本拠であったというが 定かではない。しかし、鎌倉時代中期、諏訪氏と同族の知久氏が本拠として、知久郷へ退去 するまで在館した。 その後、この城は使用される事なく当時の遺構を残しており、長野県では最も古式の 城館跡として貴重なものである。
![]() 城域の北側と南側に道が通っており、城の東側で繋がって回れるが、車を停めるには南側の 上の写真の所が停めやすい。(案内板を直進せず右折した方) 遺構としては郭とその間の堀が数条確認できる。 天竜川流域で見られるような平山城の原型であり、中世戦国時代の最終完成型のひとつが 大島城であろう。 ![]() ![]() 【左上】段丘突端部の出郭 四の郭の西側、段丘の突端部にある郭である。その下にさらに腰郭が 確認できる。この郭の大きさは10m四方程でそれほど広くはない。 【右上】出郭と四の郭との間の堀切 ここは良く遺構が遺っているが、四の郭より東側は耕作地に なったことにより、多少の破壊はされている。 ![]() ![]() 【左上】主郭より四の郭 耕作地となっているがかなり広いことが判る。先の林が出郭のある所。 【右上】四の郭より主郭下の切岸 案内板の縄張り図だと空堀が通っているが、埋められてしまった ようである。切岸が主郭との境界を判別させてくれる。 ![]() ![]() 【左上】主郭西側 主郭の西側半分は藪である。冬ならば中を歩くことも可能だが。案内板には 主郭中央に持仏堂跡があり、主郭北西部に井戸跡があると書いてあるが見つからなかった。 【右上】主郭東側より二の郭方面 主郭東半分は耕作地となり、ここより東部はすべて耕作地 となっている。主郭の北側には腰郭が2段確認できる。 ![]() ![]() 【左上】主郭と二の郭の間の空堀 ここは良く残っている! 深さ最大の所で2m程あり、トンネルの中を歩いて いるようだ。 【右上】二の郭 郭中央を東西に空堀が通っている。その背後、三の郭、御射山平の境界は空堀が 埋められてしまっており、判別できない。 ![]() ![]() 【左上】御射山平より西側城域の眺め 伊奈平が一望できる。この背後は寺沢川が流れ、断崖となって おり、背後の山と遮断されている。 【右上】城より南側の眺め 城の南側、北側は沢によって断崖が造られているが、特に南側が 比高がある。 |