和合城
 わごうじょう

《別名》 虚空蔵山  埴科郡坂城町南条



和合城は村上氏の本拠である現在の坂城と小県郡との境城として築かれたと考えられる。 村上氏没落後は、武田氏の家臣多田氏が守ったと伝えられる。
武田氏滅亡後は徳川氏と上杉氏との境界となり、当時徳川方に属していた真田昌幸は和合城(虚空蔵山)を急襲し、上杉方を破った。
慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の際、上田城の 昌幸の押さえとして残された森忠政が、兵を入れたのもここであるという。

【左】南側 千曲川からの和合城  虚空蔵山から西へ下る尾根先端部「岩鼻」の断崖上に位置する。この稜線は古くから埴科と小県の郡界であり、 軍事上の要衝地でもあった。

『和合城要図』




【左上】四の郭より主郭方面  鉄塔の右側が主郭になる。四の郭は尾根上のあまり整備されていない郭で、さらに先端の主郭に 向かって登りになる。背後東側には規模の大きい堀切がある。
【中上】三の郭より二の郭切岸  三の郭から主郭まで切岸が明確に確認できる。
【右上】主郭  周囲は急斜面の突端部、尾根続きの東側も高度が低くなっているため、眺望はすばらしい。 主郭は土塁に囲まれており、東側土塁は上幅が約5mある。石積みの形跡も残っており、烽火台として使用された場所と推定されている。


【左上】主郭より東側の眺め  虚空蔵山へ続く尾根が見える。主郭から一度尾根を下り、鞍部に出たところから北の坂城、南の上田方面へ 下る道が付いている。そこから東へ急な尾根を登っていくと、その尾根上には 高ツヤ城、鳥小屋城、 そして山頂に虚空蔵山城がある。
【中上】主郭土塁外側の石積み  周囲を取り巻いていたようである。
【右上】西下の千曲川  東西から山が迫っており、街道はこの狭いところを抜けなければならない。

【左上】主郭より坂城方面の眺め  村上氏の本拠、葛尾城が正面に見え、 千曲川西岸には荒砥城、その手前には尖がった山の出浦城、 写真では切れてしまっているが、狐落城、三水城が間近に見え、密度の濃い防衛線が張り巡らされている。
【右上】上田方面の眺め  和合城の重要性がわかる視界の広さだ。


【左】東側尾根より主郭  虚空蔵山へ続く尾根からの眺め。周囲の樹木が伐採されているため、主郭部分が良く見える。 現在、山城ではなかなか見る機会の少ない眺めだろう。


〜感想〜
太郎山、虚空蔵山城砦群の最西端に位置する和合城は、上田から坂城への関門としても重要と思われるが城域はそれほど広いものではない。
普請はそれなりに行われているが、戦国最末期まで使用されていることを考慮に入れなければならないだろう。
主郭は烽火台として使用されるには絶好の場所であり、長期間使用されていた理由は理解できる。
戦国時代の文書では「虚空蔵山」「虚空蔵」という名は出てくるが、「虚空蔵山城」という名は出てこない。 また、「和合城」も同様であり、文書の指す地域は和合城を含めて、虚空蔵山城砦群全体の広域部分を指していたと考え られる。〔『日本城郭大系』8〕 


行き方国道18号鼠橋通り信号を東へ入る。
大型スーパーの南東側裏手に和合城、太郎山登山コース案内板有り。そこから主郭まで徒歩約30分。
駐車場案内板のある墓地の空き地利用 3台
撮影日2006年6月
参考文献『日本城郭大系』8、  上田市誌編さん委員会編『室町・戦国時代の争乱』上田市誌刊行会 2001年