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![]() 若槻里城は北方の三登山中腹にある若槻山城に対応した居館で、 鎌倉時代初期に若槻頼隆(源義家の孫)によって構築された と伝えられている。 文献上の初見は応永11年(1404)10月で、大塔合戦の後、幕府領国となった信濃で、信濃守護代細川慈忠が高梨氏ら国人層の反抗を 鎮圧するため奥郡に進攻した。その際、幕府方の市川氏幸らは「桐原若槻下芋河之要害」を攻め落とすことに成功している。 〔「市河文書」〕 すでに明徳3年(1392)若槻本荘が高梨氏の一族知行分に含まれていたことからみて〔「高梨文書」〕、 若槻城は高梨氏の要害であったとみられる。 【上】若槻里城碑 現在、城域は若槻団地となっており、遺構はほとんど消滅。僅かに北側の堀の一部が「里城池」として 残っているのみ。隣接する若槻里城公園内に石碑と解説板が立っている。 『若槻里城・山城周辺図、里城要図』
【右上】若槻山城より里城方面 直線で約1.5qの距離である。里城周囲は完全に住宅街となっていることがわかる。 〜感想〜 調査によると城域は東西120m、南北180mで、郭を二つ持っていた。方形居館とは異なった形式で、防御を意識したものと なっていたようである。 現在見られる縄張りは若槻氏時代よりも時代が下った高梨氏支配下となって以降の縄張りと思われる。 山城と合わせて居館と詰城が一体化されたものは善光寺平では唯一ここだけのようであるが、両城の現在の遺構の築城年代観は 異なるようである。
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