若槻山城 〈付 番所・堂沢出城〉
 わかつきやまじょう・ばんどこ・どうさわでじろ

《別名》 若槻城 長野市若槻東条



若槻山城は麓の若槻里城に対応した詰城として築かれたといわれる。 鎌倉時代初期、源義家の孫である頼隆が 相模国毛利荘から若槻荘地頭職に補任され、居館をここに移して若槻氏を名乗った。
その後、南北朝時代には水内・高井両郡を中心に支配していた高梨氏一族の領域支配に対応した支城であったと思われる。 〔『大系』〕
しかし、応永11年(1404)10月、大塔合戦の後、幕府領国となった信濃で、信濃守護代細川慈忠が高梨氏ら国人層の反抗を 鎮圧するため奥郡に進攻した。その際、幕府方の市川氏幸らは「桐原若槻下芋河之要害」を攻め落とすことに成功している。
〔「市河文書」〕
戦国時代に入ると武田・上杉両氏による川中島四郡支配をめぐる争いの中で、若槻山城も改変を受けながら使用されたと思われる。
【上】若槻里城付近より山城方面
里城より北方へ直線で約1.5q、三登山から南へ突き出た支尾根の中腹部に位置する。
主郭部は標高676m。この尾根の北方390m、標高785mの地点には番所(ばんどこ)と称される郭が ある。また、主郭より下方870mの地点には堂沢出城と称される郭がある。

『若槻山城周辺図』


『若槻山城要図』


【左上】主郭  南北約51m、東西約22mの楕円形。周囲には土塁が確認できる。東側と南側に切れ目があり、虎口と思われる。
【中上】二の郭  南北約30m、東西約23m。主郭と同じように土塁で囲まれている。
【右上】主郭より南東側竪堀  二の郭の南側土塁に沿って下っている。堀の反対側にも階段状に郭がある。


【左上】二の郭より主郭切岸  約10mの高さ。主郭の東側虎口から二の郭の土塁で囲まれた井戸跡とされる所へ、通路が 想定できる。
【中上】東側階段状に続く郭  二の郭からさらに東側尾根には郭が続く。林道の直前あたりまで、はっきりとはしていないが 階段状に郭が確認できる。
【右上】主郭背後の堀切  東側では3条の堀切が収斂し、竪堀となって谷へ下っている、壮観な眺め。



【左】長野市街方面
善光寺から北国街道が若槻里城の東側を通って、髻山城方面へと北上する。 また、若槻山城の西側には善光寺から坂中峠を越えて野尻城、上越方面へ通じる道が通る。
ここは三登山を挟んで髻山城とともに上越方面から善光寺平に入る街道を押さえる地にある。

〜番所(ばんどこ)

主郭の北方390m、標高785mの地点に番所と称される郭があり、南北22m、東西9mを土塁で囲み、巨石を配して 尾根筋に数条の堀切を配している。ここに番兵をおいて山背よりの敵の来襲に備えた。〔現地解説板〕

『番所要図』

【左上】番所  山城側には堀切が配されていないが、この背後の尾根上には巨大な堀切が7条確認できる。
【右上】堀切  番所から約30m細尾根を登るとほぼ同じ大きさの郭がある。こちらは北側背後の部分にのみ土塁が 確認でき、その背後には巨大な堀切が4条連続している。


〜堂沢出城〜

現地解説板によると2003年6月、長野市立若槻小学校の生徒によって発見された城。
若槻山城の尾根を下り、林道を越えて約260mの位置にある。

『堂沢出城要図』


【左上】出城主郭部  南北約47m、東西約45mの方形に近い形をしている。
【中上】北側土塁  主郭北側から西側周囲には土塁がめぐらされている。
【右上】土塁背後の堀  土塁の背後に横堀が配されている。上幅最大で約2m。


〜感想〜
遺構の特徴として、@土塁で囲まれた規模の大きい主要な郭、A竪堀に沿って斜面に築かれた階段状の郭、 B堀切から伸びる収斂形の竪堀等があげられる。
16世紀後半の軍事的緊張があった時代、かなりの大きな力を持つ主体によって普請されたものと思われる。 Aの遺構で私が善光寺平周辺で挙げられるのは、旭山城塩崎城で、 2条の竪堀の間に階段状に整えられた郭を配置するのは 特徴的である。Bの遺構では塩崎城くらいか。
いずれも武田氏が16世紀後半に関与した城であるが、他の地域の武田氏系の城ではあまり見られない。 この時代の特徴とも考えられるが断言はできない。

しかし、番所で見られるような連続堀切は上杉氏の特徴でもあり、葛山城も 同様な遺構を持つ。
堂沢出城については、横堀が特徴であり、北側背後の尾根と西側を通る麓から若槻山城へ至る道に対しての防御と思われる。 土塁の北西隅は8m四方くらいの平場になっており、櫓が築かれたのかもしれない。
主郭はかなり広く山城の前衛として、兵の収容地としての機能を持っていたのであろうか。興味深い遺構である。

このように、在地領主の詰城を上杉・武田両氏の領有争いの時代に大幅に改修されたものと思われ、上杉、武田両氏の特徴を 併せ持っている感じがする。
しかし、その後の上杉景勝時代にこの城がどのように扱われていたのか、まだ不明な点が残る。


行き方長野市街より県道37号を坂中方面へ。 途中三登山山麓線林道を右折し約3q。
左側に案内板有り。主郭まで約10分。主郭から番所まで約10分。
(堂沢出城)山城登城口より約50m先、右側入口「堂沢出城跡」案内板有り。主郭まで約5分。
駐車場林道に路駐
撮影日2006年12月
更新日2006年12月17日
参考文献『日本城郭大系』8
長野市誌編さん委員会編『長野市誌』第12巻 資料編 原始・古代・中世  長野市 1997年
参考サイト埋もれた古城