薮原砦やぶはらとりで![]() 天文24年3月、武田信玄は自ら兵を率いて松本に進出し、栗原左兵衛、多田淡路等に木曽へ侵入させ、 薮原に布陣させた。 同年4月5日、甲斐軍は準備が整い、福島へ攻め込もうとしたが、越後の上杉謙信が川中島へ 出陣するという情報が届き、薮原へ栗原、多田等を残して、信玄自身は北上した。 藪原の陣屋へ木曽義昌がしばしば兵を向けたが、守りが堅く落とせなかったという。
![]() 【上】木祖村役場より鳥居峠方面 旧中山道、鳥居峠を少し薮原側に下った所に砦がある。 藪原宿が一望でき、峠を押さえる位置にある。 ハイキングコースが整備されており、役場から徒歩でも案内板が付いており、往復2時間程で行ける。 写真中央やや右よりの尾根の斜度の変わり目付近が鳥居峠。 【左】鳥居峠付近地図 鳥居峠手前の御嶽遥拝所から丸山公園付近が城の縄張りをした形跡が残る。 ![]() ![]() 【左上】丸山公園下 登山道(旧中山道)を登ってくると、丸山公園が郭状になっており、 その下を道が通る形になる。 【右上】丸山公園 尾根方向に30m程の広さがあり、隅に「鳥居峠古戦場の碑」がある。 ![]() ![]() ![]() 【左上】「鳥居峠古戦場の碑」 明治32年に建立されたもの。天文18年(1549)と 天正10年(1582)に木曽軍と武田軍がこの峠で合戦に及んだ事、峠の様子が書かれている。 しかし、ここが砦であったことはどこにも書かれていない。 【中上】公園より御嶽遥拝所の郭方面 公園との間は堀切状になっている。 【右上】硯水 木曽義仲伝説で宮ノ越で平家討伐の旗揚げをした義仲は、北国へ攻め上がる時に 鳥居峠の頂上で、戦勝祈願の願書をしたためさせて御嶽山へ奉納した。その時の硯の水と言い伝えられている。 水の手と思われる湧き水である。 ![]() ![]() ![]() 【左上】遥拝所側より公園方面 遥拝所側が高くなっており、公園を見下ろせる。登山道の郭を 挟んで反対側は谷で遙か下に車が通る林道が見える。 【中上】御嶽山遥拝所 ここは尾根方向に50m程ある大きい削平地となっている。周りに 帯郭がめぐらされているのが確認できる。 【右上】帯郭 社の裏側はかなり広くなっており、土塁もわずかに残る。 ![]() ![]() 【左上】遥拝所 峠側 遥拝所の下に一段腰郭状に削平地があり、その下で 写真左側から来た登山道と合流する。 【右上】登山道 遥拝所下の部分で堀状になっている。 ![]() ![]() ![]() 【左上】薮原宿方面の眺め 現在樹木で見晴らしは利かず、登山道の途中で撮ったもの。 当時は薮原が一望できたであろう。 【中上】林道より砦入口 車で登ってくると遥拝所入口が峠手前にある。ここから徒歩で約5分。 【右上】鳥居峠より奈良井宿方面 鳥居峠は難所の一つで、木曽氏にとっては木曽谷を守る 天然の防御施設であったろう。 ![]() 【左】木祖中学校付近 この付近は信玄の藪原陣屋跡といわれており、この陣屋を 引き揚げて、砦に籠もって防戦したのであろう。 写真奥の背後の山が鳥居峠の付近。 |