矢筒城

やづつじょう




矢筒城は永正年間(1504〜21)には既に存在しており、福王寺氏の要害として機能していたが、 その後、島津氏の本領とされる文献もあり、この時代の情況は定かではない。
天正10年に織田勢が信濃に侵攻した際、武田勝頼は上杉景勝に救援を要請した。上杉方の援軍は ここ矢筒城に集結し、武田方の長沼城へと向かった。このように矢筒城は上杉軍の重要戦略基地であった。
武田、織田氏滅亡後は景勝が北信濃支配を浸透させていくが、それに対応して大規模に整備、拡張され、 麓の屋敷群、城下町の形成など近世城郭への移行期における典型的な平山城である。
<場所>上水内郡飯綱町牟礼
<行き方>国道18号牟礼駅入り口を駅方面へ
県道60号に入り、牟礼ガード下から南へ100m
斜め右への道を入り、飯綱病院を目印に行く。
<駐車場>飯綱病院第二駐車場を利用
<撮影日>2003年11月
<参考文献>『日本城郭大系』8


矢筒城は独立峰矢筒山に築かれた城で、山全体に郭を配し、内堀があり、南側麓に屋敷群、その外側に外堀、 さらに南側は町屋となっていた。現在、屋敷群跡には病院が建ち、周辺の遺構はだいぶ破壊された。 病院建設の際の発掘調査によって屋敷群を区分したと思われる石垣などが発掘された。
矢筒城への道は東側の大手道と西側、南側の3カ所ある。東側は大きな郭が続き、なだらかであるが、 北側は八蛇川が流れ、急な斜面となり、西側も急である。南側は細長い帯郭があり、その下が屋敷跡となっている。
右写真は東側(病院第二駐車場の前からの登山道)麓にある内堀跡。
発掘調査の結果、内堀は深さ約4mの薬研堀(V字型の空堀)であったという。

左上 主郭  東西60m南北40m程の比較的大きいものである。
中上 主郭南側虎口部分に残る石垣  景勝の時代のものであろうか。ちょうど二の郭から登る部分が 奥と手前に石垣が分かれており坂道状になっている。二の郭は西、南、東とコの字型に主郭を囲っている。
右上 二の郭に残る石垣  虎口の少し東側に南北にこの石垣があり、桝形を形作っていた部分のもので あろうか。

北側の八蛇川と北側帯郭
東側の内堀を北側へ歩いていくとこの帯郭になり、川の方へと下りることもできる。


左上 矢筒城西側部分  ここには八蛇川から城下町のある南側まで運河が引かれていたという。 中世の城において運河や舟入り施設が存在していたことがわかる貴重な城である。
中上 写真の左側は八幡社のある小山であるがこの間を開削して運河を通した。
右上 現在は用水路が当時の跡を偲ばせる。


左 運河の一番奥にあたる城の南側に残る舟繋ぎ石  1.5m程の大きな平たい石の先端に10p くらいの穴が開いている。
右上 舟繋ぎ石から見た運河跡  現在は田圃が広がっていて、用水路がその中を通っている。

左上 南側外堀跡  現在は病院の前の道となっている。
中上 東側外堀から続く谷  当時の外堀はこのくらいの規模はあったであろう。上幅30m深さ15m 程である。
右上 矢筒城東側  病院駐車場から見たところ。道を挟んで向こう側に大手道がある。



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