屋代城

やしろじょう




屋代城は屋代氏によって築かれた城で、それまで北東側麓に居館を置いていたが、要害の地を求めて 一重山の尾根上に享禄〜天文年間(1528〜55)初期頃に築かれたといわれる。
屋代氏は村上氏の支族で重臣の一人であったが、天文22年(1553)の武田氏の侵攻の際には、 率先して武田氏に服属し、村上氏の葛尾城の自落を招いた。
武田氏滅亡後、織田方の森長可配下に、そして上杉景勝の勢力下においては村上義清の子景国が 海津城 に入り、屋代秀正が副将として補佐にあたった。
徳川家康が佐久・小県に侵攻した際、屋代秀正は徳川方に寝返り 荒砥城に立てこもったが、 盟友だった真田昌幸が上杉方に付いた為、この付近一帯は昌幸の所領となった。 そして、屋代氏はこの地を離れ、家康のもとへ行くことになった。
<場所>千曲市屋代
<行き方>県道392号長野電鉄、しなの鉄道の踏切東側。一重山登山道から徒歩 主郭まで約15分
<駐車場>踏切脇に駐車スペース 3台
<撮影日>2004年7月
<参考文献>『日本城郭大系』8

【上】鷲尾城下より屋代城  屋代城の東約3qの所にある鷲尾城より。写真中央のピークが主郭部。 左側手前の土砂採取場付近が国史跡の森将軍塚古墳のある場所で、土砂採取の為古墳崩壊の危険性が出てきた ので、採取場が屋代城跡に変更された。
その為、主郭以南の部分は完全に失われてしまった。手前の尾根で影になっており、 わずかにしか見えないが写真の主郭より左側が急傾斜なのはその為。 その後も城跡の土砂採取の要望が強かった為、急遽市指定史跡になったという。当時 (昭和48年)の中世文化財保護の認識がほとんど無かったという悲しい実例である。

【左上・右上】尾根北側中腹にある矢代神社と北側の眺め
かなり広い削平地で当時からのものかはわからないが、武者溜まりのような郭だったかもしれない。
善光寺平の南端に位置している為、北側の眺めはかなり遠くまで利く。

【左上・右上】旧御岳神社と主郭方面の眺め
現在は北側麓近くにある御岳神社だが、元々はここにあったという。尾根はここから一旦下って鞍部に なり、そして再び主郭へと登っていく。ここまでも堀切、小郭らしき 遺構がいくつかあるが、この先は段郭、堀切が多数確認できる。

【左上】三の郭と土塁  二の郭下の切岸部から見下ろした写真で、堀切があり三の郭内側に 土塁が残る。高さ2.5m程で、この土塁の両サイドは切れており、通路となっていたようである。
【右上】二の郭、主郭  手前が二の郭、段が付いて主郭となる。この部分だけが整地されているが、 発掘調査が行われた跡の為であろう。それ以前も耕作地であったという。

【左上】主郭  この先、南側は土砂採取の為にイッキに下っていくが、元々は郭が尾根上に 連なっており、全長は300mを越え、村上氏系の城では本城葛尾城に次ぐ大規模なものであった。
【右上】主郭西側下の石積み  西側には土留めの為、鉢巻き状に石積みが残っている。

【左上】主郭南方面  奥に有明山が見え、その左側中腹部に森将軍塚古墳がある。
【右上】歴史公園より屋代城  古墳下は現在、科野の里歴史公園があり、長野県歴史館、埋蔵文化センター などもある。
左側の急傾斜が主郭南側の採石場跡で、右側が登ってきた尾根。



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