依田城

よだじょう





丸子付近には「依田城」と呼称され、木曽義仲挙兵に関わる城と伝えられるものがいくつかあり、 この依田城も義仲に関わる城と考えられている。
平安時代末期、依田氏の祖依田為実の子、依田次郎実信は、依田城に本拠を構えていたが木曽義仲 の挙兵にあたり、その拠点とするために城を明け渡したという。木曽冠者源義仲が平家追討の令旨を受け、 木曽よりここに来て信濃、関東の兵を集めて軍団を整え、北陸路より京都に攻め上って行った。 もちろん依田氏、隣接する丸子氏もその中に入っている。
その後も依田氏の城であったようで、信玄時代の天文22年(1553)依田大和守春賢の名が 文献に見られ、中丸子、下丸子など所領安堵を得たことが記されている。
【上】城域北側からの眺め  写真左側山の麓に居館跡があり、山頂(写真では 山頂の左端)に小さい郭が確認できる。尾根が続いているが数条の堀切で断ち切られている。

<場所>上田市御岳堂
<行き方>国道152号役場前信号西へ 依田川を渡って右へ
内村川を渡って右折 宝蔵寺、宗龍寺方面へ
約1q先宗龍寺へ左折 約300m先入口
<駐車場>宗龍寺駐車場借用
<撮影日>2004年5月
<参考文献>『日本城郭大系』8

【左】宗龍寺本堂  依田城北東麓に位置する宗龍寺は依田氏居館跡と推定されている場所の 一つ。他に数カ所あり特定はできていない。背後の山が依田城。

【左・上】依田城主郭  金峰山の山頂部を削平しており、南北約8m東西約15mの細長い 郭で、真ん中近くにわずかに段差がある。西側は尾根が続いていて、堀切が数条確認できる。 主郭というより物見台という感じがする。

【左上】主郭より南東方面  眼下に丸子城を見下ろす。 (一番手前の尾根 右側のピークが主郭、左側が二の郭) 遙か先の高い山は蓼科山。
【右上】北東方面  眼下には丸子の街が広がり、遠くに浅間山のなだらかな稜線、 丘陵地の向こうに佐久平も見え隠れする。

【左上】北方面  上田、真田方面の視界が開けている。
【右上】西方面  山地の向こうに上田原、塩田平が見え、上田と坂城の境「岩鼻」も見える。

【左】主郭より背後の堀切  約5mの切岸状になっていて、一番規模が大きい部分。
【上】堀切部分  自然石を使って上手く堀切、石塁の役割をさせている。

山頂部は狭く背後の尾根もやせ尾根で、城域の中心部とは言い難い感じである。 物見台としては上の写真の通り最高の場所であり、居館等城の中心部は北麓の谷津の中に あったのではないだろうか。宗龍寺付近も条件的に合致した場所である。
信濃では近くの塩田城に代表される 中世前期の鎌倉武士の館の形式と同じように思われる。


〜アクセスルート〜

【左上】宗龍寺入口案内板を入り、登っていくと左脇に「依田城址登山道入口」の目立たない杭が 立っている。
【中上】道が右へ急カーブになったところから左側へ林道が延びおり、ここを入っていく。 ちょうどその手前右側が宗龍寺本堂脇の駐車場。ここから徒歩で約25分。
【右上】途中斜面に石垣かと一瞬勘違いしてしまいそうな光景が。同じような大きさの石が 斜面に積み重なっており、周辺かなり広い範囲でこのような感じである。上から落ちてきた石が 積み重なったものなのか、人工的なものなのか・・・不気味に感じる。


【左】宗龍寺の北東麓から谷を南下して南麓に回り込む。そこにこの案内杭がひっそりとあり、 ここからイッキに登りはじめる。


〜宝蔵寺〜
依田城の東麓、宗龍寺の南隣りにあるのが宝蔵寺。ここは木曽冠者源義仲が平家追討の為に この地に来たとき、戦勝祈願を行った寺との事。
義仲が馬で登った道が「義仲馬大門」と呼ばれ、手植えの桜が「義仲桜」として現在まで伝わっている。
また、依田城麓との間を隔てる背後の岩場には「岩谷堂岩窟古墳」という5世紀中葉の葬所跡が 残されている。

【左上】山門  【右上】岩谷堂観音  後ろに洞窟があり、江戸時代以前はその中に 観音様が安置されていたという。

関連ページ 〜義仲を捜す旅〜




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