横田城

よこたじょう

《別名》 会の館




養和元年(1181)木曽義仲は越後の城助職と横田河原で戦い、勝利した。その後義仲は横田城を 越後、北陸進出への拠点とした。
応永7年(1400)年には信濃守小笠原長秀が村上氏や大文字一揆らと戦った 大塔合戦の時も、長秀はこの城にこもったとされる。
そして戦国期、川中島の戦いの時は武田軍の原大隅守がこもったとも伝える。

【左】古殿稲荷社北側  稲荷社北側の部分には昭和7年頃まで堀が残っていたという。堀の 元幅は約6〜8mあったとの事。稲荷社のある部分は土塁部分であろうか。
また、南側には「殿屋敷」地名があり、周囲が水路で囲まれており、主郭部分と考えられている。
<場所>長野市篠ノ井会
<行き方>県道385号篠ノ井総合病院から西へ約200m南へ入る  約200m先が古殿稲荷社
<駐車場>県道、国道18号沿いの店鋪駐車場借用
<撮影日>2005年9月
<参考文献>『日本城郭大系』8

『横田城付近図』



【左上】可毛羽神社付近  城域の南西端部、裏鬼門にあたる。城域内、周囲には水路が通っており、 堀だった部分が多いと思われる。
【中上】「馬出し」付近  南東部には「馬出し」地名と半円形の水路が残る。武田氏がこの城を 使用していたと思われる根拠の一つとなっている。
【右上】城域東側の水路  この道の先に地蔵堂(地蔵寺)がある。


【左】木曽義仲供養塔
可毛野神社向かいにある。義仲の子孫にあたる人々が義仲公787年祭を 行った時、歴代諸霊の菩提を弔う為に造られたと現地解説板に書いてある。
〜感想〜
遺構らしい遺構は残っていないが、水路によって城の形が浮かびあがってくる。馬出し部分は住宅地の 間を通っているため、僅かしか確認できないが、興味深いところである。
ここから南へ約1.5q先に千曲川が流れ、 雨宮の渡しがある。
義仲の時代から信玄の時代まで、北信濃の要所として戦いが繰り返された土地であり、横田城も その間、様々な形で使用されていたと思われる。



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