与良城
 よらじょう

《別名》 下河原城 小諸市東小諸



小諸城の南東約1qの位置、同じく千曲川沿いにある 与良城は江戸時代寛政年間(1790頃)に書かれた『小諸温故』によると「小林某の居城なり」という。
他にも武田信虎の命令によって、村上氏に備えるため安田氏が与良城を築いて移り住み、郷名をとって与良氏と名乗るようになった という説〔『安田義定とその嫡流』〕や、小林某又は依羅左衛門佐、同但馬守が居城か〔『長野県町村誌』〕という説などが あり、定かなことはわかっていない。

【左】与良城西側の断崖  現在の与良城は南城公園として整備され、かなり改変されてしまっている。
北側は蛇堀川が天然の堀となっており、南側も田切り地形によって守られている。
写真の断崖は野球場建設の為に削りとられた可能性もあるが、東側を除いて周囲はこのような地形であったと思われる。


【左上】主郭付近  公園とその西側の駐車場が広大な郭跡であり、公園になる前の畑だった時代には、その間には堀があったという。 奥(東側)の林の中にある高台にも郭がある。
【中上】公園北側の堀跡  北側の公園と駐車場の間にあたる部分にはわずかに堀跡が残る。
【右上】北側横堀方面  林の中に巨大な横堀が北側側面を守っている。

【左上】北側横堀より外側土塁  土塁といっていいのかわからないが、堀底からは高さ10mはあると思われる。 土塁外側の蛇堀川には発電所用水池ができているため、堀の外側は削り取られるなどの 改変を受けているかもしれないが、現状では土塁上部は武者走り状に幅が狭い状態で残っている。
【右上】北東隅の郭  一番上の写真奥の高台になっている所にある。東側のみ周辺と地続きであるため、防御としての役割を担っていたと思われる。 公園化以前にはこの外側にも横堀があったようである。


【左】北側土塁  横堀は東に向かって浅くなり、北東隅の郭前で消滅している。が、これも以前は公園の東側に続いていたようである。
土塁の上部がかなり狭いことがわかる。また、この外側下部に土塁が一部のこっており、横堀が外側にもう1条あった可能性もある。

【左下】南側土塁  南側も道路を通しているため、かなりの改変を受けたと思われる。遊歩道の部分が横堀だった可能性がある。

〜感想〜
公園化にともなってかなり改変を受けた城であるが、周囲の巨大な堀はまだ残っている部分がある。北側の横堀は圧巻であるが、 自然地形に手を加えたのか、完全に人工的なものなのかは判断できない。
現在公園となっている場所が主郭部分と考えられるが、その広大さにはどのような意味があったのか。 「人間集団の日常的な居住の場」〔「七五三掛城と与良城」〕としての存在であったのかもしれない。周辺の千曲川段丘・ 田切り地形を利用した平原城耳取城七五三掛城小諸城等には 共通した特徴が見て取ることができ、領主として大井氏の勢力が治めていたことが指摘できる。  



行き方小諸城駐車場より線路沿いの道を南下。 約1q先の新蛇堀橋を渡って南城公園入口を右折。
駐車場公園大駐車場
撮影日2006年8月
参考文献 小諸市誌編纂委員会編『小諸市誌』歴史篇(二) 小諸市教育委員会 1984年
松岡進「七五三掛城と与良城」『中世城郭研究』第3号 中世城郭研究会 1989年