湯川城(原の城・桝形城)

ゆがわじょう(はらのじょう・ますがたじょう)




この付近は縄文時代から人が住み着き、南北朝の頃には大門街道の宿場として古くから繁栄していた。 湯川城は原の城と桝形城を併せた呼称で、南に渋川、北に滝ノ湯川がありその間の高台に広がる かなり広い城域を持った城である。城といってもほとんど高低差のない所で、武田軍が 大門峠を越えて佐久、小県、川中島などに遠征するときの足溜りとして利用したり、峠下の関所 などの役割を果たしたと思われる。両城の間、東西に中の棒道が通る。
南北に1qあまり続いている砦の沢という深さ平均15m程の深い堀が現在も所々残っており、 桝形城の西側、原の城の南側で見ることができる。
また、東に朝倉山城があり、セットで機能していたと思われる。
<場所>茅野市北山
<行き方>国道152号北山小学校正門前を西へ 約200m先十字路の左手前が原の城
十字路を右折し50m先案内板の所を左折すると桝形城
<駐車場>無し 路駐
<撮影日>2003年11月
<参考文献>茅野市編『茅野市史』中巻 中世・近世 1987年

〜原の城〜


右上 大門街道より原の城方面  右下 大手口より原の城内  城内はどのような構成であったのか は不明。現在は図のように東、北側の堀、土塁が確認できるのみである。

左上 伝大手口登った所  遠くに朝倉山城が見える
中上 大手口下側より遠望  右上 大手口
大手口の下に土塁が確認できる。写真の道が大門街道筋になる。

左上 南側の空堀  深さ15〜20mあるかなり大規模な堀である。
右上 経塚跡  昭和42年の開田事業で失われたが、東西9m、南北11m、高さ2m の塚があった。1500年前の墓、経塚、湯川城の見張り場などと色々な説がある。



〜桝形城〜


右上 桝形城と朝倉山城  崖下約20m下に滝の湯川、さらに音無川を挟んで向こうに朝倉山城がある。 右下 道の右側が桝形城跡  耕作地になってしまい遺構は何も確認できず。整備前には丸馬出しが 存在していた! 背後は滝の湯川、砦の沢によって囲まれている。原の城よりなだらかに下っており、 大門街道より見下ろすかたちになるが、地形を利用して守りは結構堅くできている。小諸城と地形的には似ている・・・

左上 砦の沢  桝形城の西側部分。この先南方面は消えているが、原の城の北側にある空堀に 続いていたものと思われる。そうすると大門街道を分断する事になり、関所のようなものがあったのでは ないか。江戸時代には諏訪藩の関所があった。
右上 東側の堀  この堀のさらに向こうに滝の湯川が流れている。



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