座光寺北本城・南本城

ざこうじきたほんじょう・みなみほんじょう

《別名》 上野城




上野城ともよばれる座光寺北本城、南本城は、座光寺氏によって築城されたといわれるが築城時期は 定かではない。
松川町の船山城主清和源氏片桐氏の庶流片桐河内守が上野城に拠って、座光寺氏を称したといわれるが、 これも諸説ある。
座光寺氏が文献に現れるのは応永年間(1394〜1427)で、この頃には既にかなりの勢力を 持った豪族となっていた。
その後、松岡城に拠る松岡氏の配下や 神之峰城の知久氏の配下となっている。
武田氏滅亡後、豊臣方に通じていた松岡氏に反し、家臣であった座光寺氏は 徳川方に通じ、江戸期には旗本として現在の高森町に山吹陣屋を構えた。

【左】松岡南城より座光寺北本城
北本城の北面で、南本城は背後の南側となる。写真左側麓には元善光寺がある。
<場所>飯田市座光寺
<行き方>(北本城)南信州フルーツライン耕雲寺入口看板を入る
(南本城)耕雲寺西側の歩道橋を南へ入ってすぐ右側山道を入る
<駐車場>耕雲寺 10台 もしくは麓の麻績神社前駐車場
<撮影日>2005年3月
<参考書籍>『日本城郭大系』8、『高森町史』上巻前篇

『座光寺北本城・南本城付近図』


〜座光寺北本城〜


【左上】耕雲寺  城域は東に突き出た段丘上に位置し、先端部北部に出丸、南部に主郭、その西側に 二の郭、三の郭という構成。現在の耕雲寺付近は三の郭となる。松岡城にある松源寺もそうだが、 山門が段丘続きの西側でなく、先端部の東側に向いているのが特徴的。
【中上】耕雲寺背後の堀跡  城域西側背後の堀切となっており、現在は埋められて耕作地となっている。
【右上】二の郭南側  南側は沢によって城域と区分されている。現在建設中の保育園と沢との境界に 土塁の一部が残存している。(写真中央の藪に覆われている部分)
主郭、出丸付近は現在小学校の敷地となっており、遺構は破壊されてしまっている。


【左】土塁 主郭方面より
残存土塁は谷側から高さ約3mあり、規模が大きかったことがうかがえる。

【右】松岡南城方面
約1q北東に松岡南城がある。


〜座光寺南本城〜


【左上】主郭西側帯郭  北側段丘上から南にのびる尾根上に郭が連なり、堀切によって区切られている。 その尾根の中央頂上部は主郭を中心として周囲に帯び郭が複雑に階段状に取り巻いている構造となっている。
【中上】主郭西側切岸
【右上】主郭の土塁  楕円形をした主郭の西半分を土塁が取り巻く。


【左】城域南側堀切
【右】城域西側堀切
南側尾根は麻績神社へと下っていく部分で、この尾根両側東西の谷には、麻績神社から南城への登山道がついている。
特に西側の谷へは各堀切がそのまま竪堀となって落ち、収斂していく。

【左上】北側から見た南本城  北側背後の段丘上からは細い尾根で繋がってはいるが、独立した小山に 見える。段丘上とほぼ同じ高さである。
【中上】南側麓からみた南本城  麓からは比較的なだらかな斜面である。
【右上】元善光寺  麓にある古刹。約1400年前推古天皇の時代に、本多善光卿によって 開かれたという。その41年後に勅命によって本尊は現在の 善光寺に遷された。
この時同じ一光三尊仏を造ってこの地に留められ、寺は元善光寺とよばれるようになった。
〜現地案内板より〜


お隣の松岡城も谷を挟んで2城が向かい合っているが、 座光寺北本城と南本城は城の造りがかなり異なっている。
資料も少ない為、謎の多い城なのだが、 北本城の居館と南本城の詰め城という関係であろうか。築城主体が異なる可能性もあるかもしれない。 今後も調査していきたい。



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