深沢城

ふかざわじょう




深沢城は今川氏親によって築かれたと伝えられているが、それ以前にも土豪の屋敷があったという。 今川氏の後、北条氏、武田氏、徳川氏がこの城を使用している。
北条氏と武田氏との深沢城をめぐる攻防戦は有名で、元亀元年(1570)11月、北条綱成が 守備していたところを、武田方は金山衆を使って掘り崩しはじめた。 翌元亀2年1月3日、信玄は矢文を送って開城を迫り、ついに北条綱成は城を明け渡した。
武田時代には駒井右京之進が城主として居城し、武田氏の駿河侵攻の前進基地の役割を果たし、 天正10年(1582)の武田氏滅亡まで続いた。
その後、天正12年徳川家康が小牧山で秀吉と戦った際に、北条の押さえとして三宅惣左衛門を 置き、同18年の北条氏没落後は廃城となった。
<場所>御殿場市深沢
<行き方>県道78号市役所より約2q北東へ
城入口バス停を左斜めに入る(案内板有り)約300m先大手前
<駐車場>深沢城石碑前に1台
<撮影日>2005年2月
<参考文献>『日本城郭大系』9

『深沢城要図』



【左上】大手虎口付近  三の丸へは馬出しを経て土橋を渡る。南側にはエル字状に堀があり、 その両側に三日月堀が配置されている。写真は東側。左側の堀がエル字の堀で、先の部分で土橋になって 左へ折れる。右側が丸馬出しになる。エル字の堀は半分耕作地だったようで、浅く整地されている。
【中上】丸馬出し  三日月堀と共によく残っている。
【右上】三の丸  現在民家、畑、林、道路が混在しているが、東西が川による断崖で遮断されており、 二の丸との間の堀があるため、巨大な城だということは判る。

【左上】二の丸虎口  虎口部分の通路は細く、堀が集まって来ている部分で、工夫がなされていると感じる。
二の丸は南半分は林で高さが城内で最も高く、北半分は耕作地になっており整地されている。
【右上】本丸虎口  ほとんどが耕作地になっている。虎口は堀切に土橋がついて内側にはさらに東側に竪堀状 の堀が入り込んでおり、各虎口部分は深沢城の見どころの一つとなっている。

【左上】本丸より二の丸、三の丸方面 (西側)  馬伏川の断崖となっている。
【右上】西側 三日月堀  三の丸を突っ切る道路の反対側にある。この堀も耕作地だったようで、 浅く整地されており、東部分は道路、民家でやや消滅しているようである。堀の長さ60mくらいは ありそうで、巨大さには驚く。


この地は足柄路がすぐ脇を通り、足柄峠を越え小田原に通じる。そして少し南には旧鎌倉街道が通って おり甲斐へと通じ、反対側は箱根、小田原へと抜けるという武田、北条両氏にとって、絶対に 手放せない城であったことがうかがえる。

深沢城の主郭については、二の丸が一番高くなっている事、本丸虎口が二の丸を防御する形状である事、 本丸北側の断崖部分の高さが低く、侵入しやすい事等の理由で、 深沢城の中心の郭は二の丸であり、本丸と呼ばれている所は捨て曲輪的なものだったのではないかと、 小和田哲男氏は城郭大系やその他の本で述べている。



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