勝間田城

かつまたじょう




勝間田氏はこの地方を本拠地とする豪族で、平安末期の保元の乱で活躍し、興起の基礎をつくった。
鎌倉時代には幕府の御家人となって勢力を得たが、南北朝期には南朝方につき、その後潜伏していた。
一族は室町期足利氏の幕下今川氏の一将として再び登場し、将軍の直属軍として応永の乱、 永享の乱に活躍した。その間、遠江の守護は今川氏から斯波氏に代わり、勝間田氏は今川氏の西の防壁として、 斯波氏の圧迫を感じ、応永年間に勝間田城を築いたと推定される。
応仁の乱が起こると今川氏と対立し、今川義忠の猛攻の前に文明8年(1476)ついに落城。遠東の 名族も衰亡することになる。
その後、この城が使われたという記録は無いが、遺構からはその後に手が加えられた形跡が認められる。
<場所>牧之原市勝田
<行き方>金谷方面より県道233号新幹線をくぐって
約700m先案内板有り、右側(南側)脇道に入る。
<駐車場>麓に専用駐車場5台
<撮影日>2004年1月
<参考文献>『日本城郭大系』9



【左上】三の曲輪虎口  現在出曲輪は茶畑となっており、遺構らしきものは無い。実質的な城域への入り口となる。
【中上】三の曲輪  虎口を入るとイッキに広い削平地が広がる。周りは土塁で囲まれているが、 現在の歩道が本曲輪まで真ん中を突っ切っており、それに伴って土塁が削られてしまっている。
【右上】西三の曲輪  虎口から西側の部分にあたり、発掘調査がなされており、掘立柱建物があった。 番小屋があったという。

【左上】三の曲輪土塁  北東側の土塁には折れがあり、その下には腰曲輪がある。
【右上】「馬洗い池」  三の曲輪北西部分に窪地があり、そう呼ばれている。溜井の跡ともいわれる。

【左上】三の曲輪東部の小曲輪  東側にはなだらかな尾根が続いており、そこを防御する為に堀切、小曲輪を いくつか設けている。
【右上】三の曲輪北部下の腰曲輪  ちょうど谷を挟んで向かい側に出曲輪から大手道が来ている。 横矢をかけるためのものであろうか。

【左上】現在の歩道  三の曲輪から一段上の二の曲輪方向であるが、この道を通すのに土塁を 破壊しているようである。実際の二の曲輪への虎口は東西両隅にある。
【中上】東隅にある二の曲輪への虎口  ここが本来のものである。
【右上】二の曲輪内の建物跡  ここも発掘調査がされており、11棟の掘立柱建物跡と1棟の 礎石建物跡が確認された。中世の山城で礎石建物が確認されたのは非常にめずらしいそうだ。

【左上】東尾根曲輪より二の曲輪  奥の影になっている部分は三の曲輪。かなり広い削平地であることが わかる。
【右上】二の曲輪より東尾根曲輪  二の曲輪より上の曲輪群との間には谷が入り込んで、堀切がつくられている。 曲輪の規模、造りもここを境として違うため、時代が異なるといわれている。
上の部分(南部分)の東尾根曲輪は写真の左側(東側)へ尾根上に堀切、小曲輪が続いており、防御を固めている。

【左上】本曲輪北下の腰曲輪  東尾根との付け根部分にあたる。写真奥の切岸上が本曲輪。
【中上】北尾根曲輪  腰曲輪の北側下にあり、その先は堀切を経て二の曲輪へとつながる。
曲輪北側と東側に土塁が確認できる。
【右上】本曲輪内部  ここを中心とした南部分が勝間田氏による築城で、下の部分(北部分)は 今川・武田氏によるという説もあるが、そこは定かではない。

【左上】南曲輪  本曲輪背後に続く南尾根にある。この先堀切を経てもう一つ小郭を設け、 さらにその先に三条の堀切を造っており、南方面の防御には相当の力を入れていることがわかる。
【右上】東尾根に続く小曲輪と堀切  先の末端部にやや大きな削平地があり見張り台のようなもの があったのであろうか。

【左上】東尾根末端部  東尾根曲輪から100m程小曲輪、堀切が続き、末端にこのやや広い削平地がある。
【中上】大手より出曲輪方面  下の駐車場からここまではまったく城の雰囲気は無い。人の手が入って だいぶ時が経っているのであろう。
【右上】出曲輪より北側下の集落の眺め  両側は低い山地が続いており、麓のほうは茶畑がつづく。



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